見出し画像

ようやく野中広務事務所に慣れてきた

 昭和61年5月の連休も明け、ようやく事務所の業務にも慣れてきた。しかし、事務所に入ってから一日も休みはなかった。平日は、事務所にいる時は、大量に発送する郵便物やコピー取り、そして荷物運び、また、固定電話しかなかった時代なので電話が鳴ると大体一回で取って「野中事務所でございます。」とすぐにでないと2、3回鳴らせて電話をかけてきた方を待たせてはいけないと言う暗黙の掟のようなものがあった。そういうのが事務所にいる時の私の仕事だった。
 また、外に出る時は、先輩秘書の運転で後援会まわりをしていた。朝は、9時から就業ということなので普通は、8時45分ぐらいに事務所に入る。時々、先輩秘書を朝迎えに行ったりもした。夜は、後援会の方の自宅やその近くの居酒屋やスナックなどで後援会の方と先輩秘書がお酒を酌み交わすので、お酒を飲めない私は、毎夜運転をして酔っている先輩秘書を送り届けるのが、その頃の主な仕事だった。また、この頃、ポケットベルが出始めた頃で持たせてもらうのが、「仕事をしている!」と言う思いがあり、妙に嬉しかったのを覚えている。だいたいこのような毎日で朝7時半に家を車で出て、夜は午前0時ぐらいに先輩秘書を送り、家に帰るのが午前1時ぐらいという状況だった。
唯一、金曜日の夕方に野中先生が東京から帰って来て、土日に、運転専属の秘書と私が随行をするので朝は10時ぐらいから夜は9時ぐらいに帰ることが出来るという状況だった。当時は、土曜日閉庁など役所もなかったので、事務所も土曜日はフル稼働していた。
 ある日、京都の南部地域の町の後援会長から連絡があり、「誰か秘書がすぐ来い。町会議員さんが亡くなったから俺と一緒に弔問するように!」ということだった。多分、先輩秘書は、そちらにいくとどういう状況なのかわかっていたと思う。
先輩秘書から「みんなやる事があるから山田だけ手が空いているから後援会長のところに行ってこい。それで後援会長の言う通りにせえよ。」と言われたので、停めている自分の車で事務所から約1時間半ぐらいかかるその町の後援会長のところの自宅に行った。すると後援会長が自宅からワイシャツに黒いネクタイをして出てきて、私に、「ネクタイと数珠持ってるか?」と聞かれて「はい。車に積んでます。すぐにネクタイします。」と言うと「ほな、あんたの車で行こか、道言うさかい、運転してんか。また、着いたら俺の後ろにいて、俺のすることを見ときや。同じようにしたらええから。」と言われて私は、「えー、何するねん。」と思いながらネクタイを変えてから運転して指示通りに車を走らせた。
亡くなられた町会議員さんの自宅に着くと後援会長が扉をあけて「すみません。野中の秘書、お悔やみに連れてきました。」と言われた。奥様が出てこられた。「お忙しいところありがとうございます。どうぞおあがりください。」と言われて家の中に入れてもらうと私は、その光景にびっくりした。てっきり祭壇とかがあり、葬儀の用意ができているものと思っていたら、亡くなられた町会議員さんが病院から自宅に戻られたところだったようで、顔に白い布が被せてあり、まだ布団に寝せてある状態だった。私は、「えっ、まさか白い布をとって拝むのかなぁ。」と思いながら、後援会長の後ろに座ると、後援会長に奥様が、「どうぞ、顔見てやってください。寝てるみたいですから。」と言われた。後援会長は、布団の横に行き、白い布をとって顔をしっかり見て数珠を持って手を合わせた。そしてまた、白い布を被せ、奥様に頭を下げて、私に、「おい。」と言って座る場所をあけた。私は、後援会長がした通りにやったが、なんせ、亡くなられた町会議員さんは、この時が私は、初対面だったので、「秘書ってこういうのも仕事なんや。これからもこういうことが何回もあるんやろな」と思って座っていると、後援会長が「また、改めて葬式には先生きますさかい。よろしくお願いします。」と言って立ち上がり、そちらの自宅を出た。車に乗り込むと「お前、ええ経験したやろ。新入りやからあの議員さんは初めてやわな。まー、いろいろあるぞ。でもお前がお悔やみに、いち早く野中の名代で来たことであそこの家族は、喜んだはるよ。よかったやろ。」と言われて「はい。ありがとうございます。」と答えた。この頃は、なんせ選挙区が広く、野中系と言われる町会、村会議員を含めると
500人以上おられ、後援会の幹部と言われる方を含めると凄い人数になるので、こういうことは日常で普通だった。でも、この時は自分では、まだ秘書になりたてだったので衝撃的な出来事だった。

この記事が参加している募集

#はじめての仕事

4,029件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?