フキゲンな人々

 私の男親(=毒親)も、別れたDV夫も、共にフキゲンなヒトだった。生活を共にしている時は分からなかった。そんな人間であると分かりたくない、認めたくない思いも、あったのかもしれないが。

 ネットの記事で、精神科医の方が「親は子に、機嫌の良い姿を見せていればそれでいい。ただし、無理に装ってはダメ。子どもはちゃんとそれを見抜く。」このような趣旨のことを書いておられるのを読み、二人のフキゲンに思い至った。

 以前にも書いたが、社会人となって以降、自分のさまざまな悩みを少しでも解明、解消したくて、いろいろな講座を受講した。そこで学んだ「感情に良し悪しは無い」、「その人の感情は全て、その人自身が選び取っている」これらの認識に、私は確かに救われ、生きる力を与えられた。
 DV夫からは「お前のせいで、俺は怒っている、不機嫌だ」と常に罵倒され、それ以前は男親から「その顔(表情)は、言い方は、何だ!」と難癖を付けられていた。その結果、彼らの仕草、表情、声色等を敏感に察知し、探り、機嫌を損ねないよう、必死に気を遣い、自分の立ち居振舞いを決めるようになって行った。そこにあるのは「他人軸」一本。自分はどうしたいか、即ち「自分軸」は無かった。

 「過去と他人は変えられない、変えられるのは自分と未来」その通り、ド正論。ただ、自分が変わり“たい”と思わなければ、それは無理。変わら“ねば” という義務感や、相手への恐怖心だけでは続かない。自分の心、自分らしさを殺してまで、自分を変えることなど不可能。そんなことをしていたら、自分が壊れる。これは私の実感であり、実体験。勿論、全てのヒトに当てはまるなんて、思ってもいないが。

 フキゲンなヒトは、そう在ることが自分にとっての「快」をもたらすのを、人生の始めの方で学習してしまったヒト。そのフキゲンは、無限地獄。こちらが何をしても、しなくても、どういう言い方をしても、しなくても、フキゲン。同じことをしても、言っても、ある時はスルー、ある時はフキゲン。こちらからすれば、たまらない。フキゲンのトリガースイッチがコロコロ変わり、アチコチにあるのだから、対処のしようが無い。メンタル崩壊は、時間の問題。
 お天気が晴れでも、曇りでも、雨でも、道が空いていても、渋滞でも、ともかく、いつでも、どこでも文句、もんく、モンク。それがフキゲンな人々。私はそう認識している。

 では、どうするか。何か上手い方法はあるのか。以下、私なりの考えを、書いてみたい。

・このヒトはこういうヒトと諦め、何の期待もしない(相互理解、歩み寄り、温かい人間関係、認めてもらう、受け容れてもらうetc、期待しない)

・親子、夫婦、家族、立場、役割etcに対する、あらゆる「幻想」を捨て「今、ここ」の現実、現状を見据える(子は親を敬い親に従うべき。夫婦は忍耐。家族はいいもの、助け合うもの、なんて幻想《ま·ぼ·ろ·しーー!》)

・物理的距離を置く(その場を離れる、別居する、別れる《三十六計逃げるが勝ち》とも言うし)

※わたし(たち)には、自分(の心、身体)を守る権利がある。
自分を本当に守れる(大切にできる)のは自分

 DV夫の下から逃げた時、こっちは被害者なのに、何で更に色々(住む場所、働く場所、それまでの人間関係etc)失わなければならないんだ! と、その理不尽さに憤りを覚えた。が、私の場合、命には替えられなかった。殺されないまでも、怪我を負わされたり、メンタルがもっとやられ、自死を選んでしまう不安があった。 それに、何と言っても「過去と他人は変えられない」のだ。フキゲンな人々、何かに付け、文句を言い、難癖を付けてくる人々は、なおさら。何故ならば、本人たちが、その必要を感じていないのだから。むしろ、そういう自分でいることで「快」を得ているのだから。

 逃げる=負け、なんて誰がいつ決めたのか。逃げる=その場から離れる=相手の土俵に乗らない=自分と相手の境界線(バウンダリー)を明確にする。
 これでいいじゃないか。

 そう言えば、某TVドラマでも、いじめに遭った我が子を転校させた母親が「逃げたっていいんだ」というようなことを言っていたなぁ。

 ただ、これらは、毒親とは物理的に距離を置き、DV夫とは離婚したからこそ、書けること。今、彼らと暮らして、これだけのことが実行できるかどうか。甚だ自信が無い。親子関係は、よほど気を付けないと、それまでのパターンにはまってしまいがちだし、DVも、確かにトラウマになっているから。
 「言う(書く)は易し、行うは難し」だな、これは。(この言葉、いつかも書いてる。分かっちゃいるケド……。)

《蛇足ながら》
 私はこの「ケド=けれど」の後の「……。」(三点リーダ)、この部分を大切にして生きて行きたいと、いつも思っている。

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