未来のゴミ

 「私たちは皆、未来のゴミと共に暮らしている。ゴミと暮らしているのは、何もゴミ屋敷の住人だけに限ったことではない。」
 この(ような内容の)文に「もっと捨てよ、まだまだ処分せよ」と、背中をドン!と押された気分だ。ハッパをかけられた、というのが一番ピッタリかも知れない。いや、またまた「目からうろこ」か。

 「未来のゴミ……。」遺品整理業者の方が書いておられた文である。さすが、日々、実地で体験されている、その生々しさが伝わって来る。それもきっと壮絶な、私などには想像もつかない体験、現実、現場に違いない。

 私だって「自分が死ねば全てゴミ」とは思っている。「今」&「未だ」ズルズルと、処分を先延ばしにしているモノたちの大半は、確かに「未来のゴミ」だ。何度も書いてしまうが、終活、終活と、大騒ぎしているにもかかわらず、大してはかどっていない私にとって、この表現はホント、こたえる。ドン!& ガ〜~~ン!!
 ただ 「今」という時に、この言葉に出会えて、よかったとは思っている。なんてったって「今」が一番若いのだから。それに、遅々とではあるが、ともかく捨てる、片付ける、を数年間続けて来たことで、いろいろ気付かされているところだし。また、片付け指南本の多くに書いてある「いつか使うかも、の『いつか』は来ない」この言葉が、やっと実感できるようにもなって来たし。

 これからは「未来のゴミ」この視点から、今あるモノを見つめよう。そう意識したら「今を生きる」これが、ますます強く思われる。しかし「今」必要なモノを厳選し、それらと共に暮らしたつもりでも、結局は「使っていたヒトが死ねば、全てはゴミ」と化す。ああ、無情。これが現実。
 持ち主は、最後の最後、自分のモノを片付けられない。この「当たり前」に今更ながら、おひとり様の私は愕然とし、呆然とする。挙げ句の果てに「他人に迷惑をかけてはいけない」これが呪縛となり、代わりに担ってくれるヒトの手間をどれだけ省くか、負担をどれだけ軽くするか、そればかりに思いが飛んでしまう。すると次第に「今を生きる」これと両立するのだろうか、との疑問が頭をもたげる。

 生きている限り「何も無し」では暮らせない。そうなると「未来のゴミ」が最も少ない状態で人生を終えられるのはやはり、ミニマリスト、なのか。
 
「自分の死を見据え、終活にいそしむ」言葉にしてしまえば、ほんの十数字に過ぎないが、いざ始めてみたら、私にとっては、途方も無いことだった。恐れや戸惑いも生じているし、過去の揺り返しに翻弄されてもいる。モノたちの処分にしても、何だか、禅問答や哲学のように思われる。
 
 これほどの深みにはまるとは、想定外もいいところ。それはそれで、面白いけれど。

 ドン!ガ〜~~ン!! この衝撃に追い立てられて、モチベーションも、少し上がった。今あるモノたちの捉え方も、若干ではあるが、変わったように感じる。そっか結局全ては「未来のゴミ」なんだ、と。それに伴い、勿体無い、いつか、と思う心も、ちょっと引っ込んだ、かな。あれもこれも「未来のゴミ」と思ったら、これまでよりはスッキリと、手放せそうな気にもなっている。まあ、慌てず、焦らず、また取り組んで行こう。
 と、書いていたら、今度は「『今活』をしっかり行っていれば『終活』の必要はなくなる」こんな言葉が飛び込んで来た。

 やっぱり、キーワードは「今」か……。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?