頭の中の言葉、口に出す言葉

 私は「言葉の(出るのが)遅い子」だったらしい。ある時、女親が言っていた。
 「遅い」と言うからには当然、何かと比較してであり、それは標準、平均、フツー、あるいは周囲の子どもたち。生まれた瞬間(それ以前?)からヒトは、かくも「比較」の只中に在るのか……。
 それはさておき、結果的には、ある日突然、洪水のように言葉が出て来たそうだ。それでも「お喋りさん」にはならなかったようで、これも女親から「何を考えているのか分からない子」と、面と向かって言われたのを覚えている。

 その頃から私は既に、口に出す言葉を失っていたと言えるのかもしれない。

 相手と実際に話す以前に、その会話の様子が、まるで映画のワンシーンのように浮かんでしまうことが多かった。ああ言ったらこう返ってくる、こう言ったらああ返ってくると、自分でも止めようがなかった。のみならず、相手が私の言ったことをどう受け止め、どう思うかまで想像していた。他人=自分ではない存在、全く別個の人間であるにもかかわらず。そうなるともう、頭の中には言葉が溢れているのに、口に出すことは出来なかった。今から思えば「先読み不安」か「予定調和へのこだわり」か。いや違う!  自分が感じたこと、思ったことを素直に口にして、痛い目に遭ってばかりいた結果、だ。
 痛い目に遭わされた相手は毒親たち。彼らは、我が子が自己主張すると不機嫌になり、怒り、否定し「そんなこと言うな」と禁止した。親の世話になるしかない「子ども」の生存戦略として、無口になる(無口を装う)しか無かったのは、当然の帰結だろう。「心理的安全性」の無い家庭だったと、認めざるを得ない。とても悲しく、残念だ。

 過去と他人は変えられない。ただ、その捉え方は自分次第。気付いた時点でどうにでも変えられる。さまざまな体験、学びを通して、私はいつしかそう思えるようになった。
 だから今は、そんな家庭に育ったからこそ、言葉に対して敏感になれた(言い方、言い回し、言葉の選び方etc.)、頭の中で言葉を選び過ぎて逆に、口に出す言葉を失うという、貴重な体験が出来た、そう捉えている。皮肉でも、負け惜しみでもなく。

 「心理的安全性」と言えば、亡くなった夫は、生き方や暮らし方に確固とした自分のスタイルがあり、こだわりも強く、頑固な面も持ち合わせていたが、そのスタイルやこだわりを私にも当てはめ、強要することは無かった。むしろ、私が私らしく在るのを応援し、誰よりも喜んでくれた。少なくとも私にとっては「心理的安全性」を感じられる存在だった(彼自身にそんな自覚は無かっただったろうけれど)。彼と共に紡いた時の中で、私は言葉を口に取り戻したと言っても、過言ではないだろう。

 これらの故に私は「自分の気持ちは一旦置いといて」相手の話に耳を傾けることの出来るヒトで在りたいと、強く願う。自分の価値観を相手に押し付けたり、相手の価値観を批判、否定、評価したりせず。相手の感情も然り。その人がその人だからこそ、感じるのだ。その人がその人らしく在る尊さ&貴さを大切にしたい。そこに優劣や良し悪しは無いのだもの。

 とは言え、そうすることの何と難しいことか。かく在りたいと願っているそばから、ああすればいいのに、こう捉えればいいのにと「自分の価値観」を押し付けたくなっている。

 そんなこと言わないで・そこまで考える?・何言ってんの?・フツーは・それだから・そうは言っても。物心ついて以来、どれだけこんな言葉で返されただろう。亡夫と出逢うまで、私が私らしく在るのを実感し、楽しみ、味わっている時、どれほどそれをぶち壊され、否定されたことか。その時の虚しさ、悲しさ、絶望感は、計り知れなかったはず。それらの感情をズルズル引きずるのではなく、とんだ目にあった哀れな自分、と悲劇のヒロインぶるのでもなくただ、その痛みは忘れずにいたい。けれども、自分の痛みと誰かの痛みは異なる。これも心に留め「分かります」とか「実は私も」とか無神経に口にする「会話泥棒」にならないようにも気を付けながら。

 それでもやはり、実践するのは難しい(「やはり難しい」の無限ループ!!)。ついうっかり、「分かります」とか「実は私も」とか言いそうになる(言っている?!)。

 こんな無限ループも傾斜がついて、螺旋になればいいのだろうか……。

 
 
 
 
 

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