あるものを数える −非識字− 


鬱MAX時。新しく入ったバイト先で、言われて卵の数を数えたのだが、いくつまで数えたのか忘れてしまう。そして何度も数える。やっと数が把握出来た。そして卵の数を数えるのすら出来なくなった自分を嘆いていました。

少し時が過ぎて、ある程度仕事をこなせるようになって、でも相変わらずバイトの時間が終わるともうする事ないから控室でボロ泣きし、本屋で心理系、精神系、自己啓発系本を片っ端から手に取り、気になった物はどんどん買っていた時。

その時のバイト先は焼肉屋の調理補助だったので、そういう仕事、仕込みや洗い物、時折盛り付け。

ある時ふと思いました。

塩何グラムと言えば量れるな。○ccと言われれば量れるな。○合と言われてもわかるな。ごま油1に対してオリーブオイル4と言われればわかるな。最初は覚えられなくてもレシピはまとめてファイルして置いてあるからそれ見返せばいいんだな。

そしてハッと気付きました。

私の母親は非識字者でした。おそらく計算も出来なかったと思われます。

この識字率99%の日本において!

カタカナしか書いてるのを見たことがありませんでした。今までこなしていた家事はすべて記憶だけが頼り。レトルトパックのようなどんな便利な省料理が売ってても、文字が読めないのだから使いようがないのです。洗剤も、高機能の家電も、使い方を教わって記憶して、それをするだけ。

私達兄弟姉妹が持って来た学校のチラシも連絡帳も、何が書いてあったのかさっぱりだったのです。

誰がそういもののフォローをしていたか。父親です。父親がプリントやら連絡帳やらを読んで母親にこうだからこうと説明して、それに従っていたのです。

今までどんなにどんなに言っても改善されなかった理由がわかりました。同じ事繰り返す理由がわかりました。記憶だけが頼りだったのです。

ちなみに出された夕食は煮物(しょっぱい)、カレー、シチュー、焼肉、鍋、刺身、他スーパーの惣菜。このあたりがルーティンされて出てきました。たまに焼き魚や煮魚がありました。

すき焼きやるときは父親がいつもタレを調整してました。

味噌汁は出されていました。味噌はいつも二種類くらいを合わせていて、かめにたっぷり入っていました。

例えば子供が食べたいと思う人気のハンバーグやらオムライス、グラタン等のおかずは出たことがありません。出たとしたら出来合いのものです。母親が作った物は一度たりとも出たことはありませんでした。

なんとなく、そういうのを食べたいと、リクエストしても出ては来ないだろうとわかっていたから、リクエストした事はありませんでした。

今、私がここでやっている仕事なんて出来ないのです。

実家周辺は中小の工場が多かったから、ライン作業業務の募集が多くありましたが、そういう仕事のパートしか行ってなかったです。(断っておきますが、そういう仕事を卑下しているわけではありません。ただ字が読めない、計算も出来ない母親のパート先はこういう所しかできないって話です)

買い物はおそらく、2桁3桁の違いくらいはわかるだろうから、桁の多いお金出せば間に合う、くらいの感覚だったのではないでしょうか。一緒に買い物に行った事がほとんどないので、わからないのですが。

お金がない、の口癖も、計算出来ない上での不安からも発生していたのでしょう。もっとも安いから買うとか、安い食材で料理なんて高等な事ができるわけもないから、それでも財布はその「母親」に握らせていたので実際お金はなかったでしょうが(財布の紐をこの母親に握らせていたのは父親の意向です。聞いたことあるので)。とにかくこういう母親なので、理論整然とした会話は出来ないので、会話をした記憶もほとんどない、成人した子供がもう一人いたようなもの。それが私家族の「母親」でした。

機能不全家族

知っている人は知っているでしょう。機能不全家族。父親が父親の役目をしない。母親が母親の役目をしない。だから誰かがその代わりをする。

私の家族は母親が母親の役目をしない家族でした。では誰がその役目を担っていたのでしょうか?それは時に父親であり、そして姉だったでしょう。

でも姉は私が姉の真似をするのを凄く嫌がりました。これは推測ですが、姉は近所の人だったり、あるいは私は知らない姉のネットワークだったりで、手芸(セーターを編んでもらった事がある。ただし一度だけ)したり、クッキー作ったり、料理したりしていましたが、母親から教わるはずはないから自分の構築したコミュニティで習得していったのでしょう。言うなれば、教わる先の構築も自力努力だったのです。言い換えれば二倍の努力。それを私に簡単に真似されるのが嫌だったのでしょう。

真似されたりするのを嫌がった姉。そしてどこか私を見下していたような姉。教わってないことは出来ないのに、教わってないことをやれと振られていたような気がします。3歳違いです。子供だからそこまでは気が回らなかった事もありましょうが、性格的にも気が合うとは言い難い姉でした。

選び方を間違えた

母親がアテにならない、期待できない分、も含め、父親は大好きでした。どこに出かけるのにも父親が一緒で、そしてカメラが趣味だったのでどこ行くにもカメラ片手。今でこそスマホにカメラ搭載標準装備ですけれど、当時はカメラはそこそこ高い品物。風景からスナップ写真、あまりより好みせずに撮っていましたし、たまに近所や親戚からカメラマンを頼まれるなど、何の自慢もない、話すこともない私家でしたが、アルバムの多さだけは自慢でした。

母親代わりを努めていた事もあって、何でも知っていて、壊れた物を直してくれて、自慢の父親でもありました。

父親には割と何でも話していました。

大方の娘がそうであるように、父親が理想の結婚相手、あるいは似たような人を選ぶ。私もそうでした。十年添って破局した男は似ている所がありました。

でも・・・

一番助けて欲しい時に

勝手にやった

言われました。二人共。

いざというときに助けてくれると思った男二人に拒否されたのです。

声優挫折して、男とも破局して、ここにいる意味がなくなった私は、とりあえず衣食住は確保して、いちからやり直そうと思い、家に帰りたいと言った私に

「帰って来てもいいけど居場所はないから!」

と吐き出され、電話ガチャ切りした相手は何を隠そう、父親でした。

以来、私は拒絶。たまに送られてくる封書、もちろん母親は手紙なんて書けるはずもないので書き手は父親ですが、封を開けもしませんでした。
何があってももう帰るもんかと。

鬱になりながらも模索しているうちに母親の事が炙り出され、ずっと思っていた一つの疑問とそれに伴う結果が導き出されました。

疑問 何故父親はこの人(母親)を結婚相手に選んだのだろう。何故離婚しないのだろう。

何故かはわからないが、絶対になりたくない大人の筆頭である母親を伴侶に選んだのは父なのです。

だから

私は父親と似た人を選んだら駄目なのです。正反対ぐらいの人を選ばないと駄目だったのです。


多分、そういうことなのです。

子供の頃からなんとなく、家族とは疎外感があったのです。望まれて産まれたのではないような、産まれて来ないほうがよかったような。

そんな事言われた事はないのですが。

軽いネグレクトに近いでしょう。小学校低学年の時、いじめらていた私に気が付かない、中学校の思春期、あの狼子供の雨と雪のエピソードのように女性としての嗜み云々何も気が付かない、もとい気づくような器をそもそも持ち合わせてはいない人。

そして声優の夢挫折して鬱状態になり、家に帰りたいと行った時も。

一番困っているとき、助けて欲しいときに助けてくれないのです。私は私の家族とはそういう相性なのです。そう生まれついているのです。
家族だからって一番困っているときに助けてくれるとは限らないのです。

某占いにそういう生まれになりやすいってありました。家族との縁が薄い。孤独。子孫が途絶える、又、私と父親との関係も母親との関係も姉との関係も某占い上はあまり好いとは載っていませんでした。
弟とは割と良くて一番良かったのは故兄でした。一番相性のいい亡くなった兄が正に、一番危険な時にその存在感を発揮したのです。

そして私はこの某子女の占いを一番信じるようになりました。現状ありき、なのです。


それでも、親からの愛情がなかったとは思わない

実家との断絶を余儀なくされた私ですが、親からの愛情がなかったとは決して思いません。
たまに実家に帰れば「ゆっくりしていけば?」と、夕飯は母親は私の好物のなめこの味噌汁にしてくれたり、有志で朗読劇をした時は、父親は孫が出来たから買ったばかりのハンディカム(家庭用動画撮影機ですね)片手に観に来てくれたりしました。
ただ某漫画のセリフ「どのくらい愛しているかではない。どのように愛してやれるかなんだ」のように、そうじゃない、そこではない。

某氏は結婚とは、自分が育った家庭を踏まえて、これからより理想に近い家庭を新たに自ら築くことと仰ってました。育った家庭を卒業して、これからは自ら構築していく。これが結婚だと。

男と破局して、毎晩のようにネットカフェで朝を迎えていた時、パソコンで無料占いをずっと探してはやっていた時、やたら結婚というキーワードが出て来ました。

半同棲状態という事情を知っていた私の友達は、「慰謝料取れるよ」言いました。でも、結婚という「約束」はしていない状態。
言うなれば男が私に対して責任を負う必要は実情ないわけで、男にとって物凄く都合のいい状態だったわけで、だからこそ腸煮えくり返るような、はじめて心の底から憎しみが湧いたわけで、次は絶対に結婚という、責任と義務が発生する関係にしようと思ったのです。



インナーチャイルドの慰め

インナーチャイルド。これも知っている人は知っていると思います。自分の中の子供。自分の幼い部分。あるいは成長していない、満たされていない所。

カウセリング受けて言われたのは確かこれ。貴方のインナーチャイルドを慰めてあげてくださいって。

イメージ。泣いている幼い頃の私を大人になった現在の私が抱きしめてあげてくださいって。

そう、前出の瀕死の仔猫を助けて上げるというのと全く一緒です。

私は髪の毛を自分で洗えるようになるまでのばす事を禁止されていたのです。そして髪は常に父親が家で切っておりました。家で切ること自体は嫌ではありませんでしたが美容院デビューがかなり遅かった為、私にとって美容院は歯医者よりも行きにくいところになってます。
母親が娘の髪の毛を洗えもしなければ結うこともゴムで縛ることさえもしなかった、出来なかったのです。
私も他の子のように二つに縛ったり、三つ編みしたり、たまにはリボンつけたりしたかった。なのでイメージの中で幼い私にやってあげました。

服も買ってもらった記憶ないので、買ってあげました。お弁当も色きれいになんて作ってもらえなかったから、卵焼きだとか、プチトマトだとか、入れてきれいに作って持たせてあげました。

一緒にクッキー焼いたり、ケーキ焼いたりもしました。おおよそ大体の母親が娘と一緒にすることを思いつく限り、インナーチャイルド、私の中の幼い私と一緒にやったのです。

そして、いじめられていたから(親には当時は打ち明けなかった。なんか無駄って言うのがわかっていたのかもしれない)じっくり話を聞いてあげて、学校にも話し合いにいって、そして「無理に行かなくてもいい」と言ってあげました。

小学校の卒業式には、少しドレスアップした服を着せてあげました。(えーえー普段着でした。他の人は皆ドレスアップした服でした)

現実の今の私にもできる範囲でやりました。ちょっと欲しくなった服やら靴やらを買って、食べたいと思ったらケーキを買って食べました。現実の私にも優しく、なるべく希望を叶える生活をしました。

私は私という子供を育てたのです。母親に代わって。

全てではありませんが、今までは芝居に必要だから、という理由で色々とやっていたように思います。理由付けをして何かをしていたように思います。

ファッションの組み合わせだとか、メイクだとかは芝居を通して学んだ事がほとんどだと思います。

必要だからやる、ではなくてそうしたいから、やる。


閑話休題


その一:おおかみこどもの雨と雪

観ました。WOWOWで(夫がテニス見たさに契約した)。
綺麗ですね。子供の成長の物語か〜なんて思いながら見ていて・・・嫌ですね大人って。でもまあ大人になちゃったからなと思いつつ。女の子と男の子の性別による精神の成長の違いなども表れていて、面白かったです。

一つ私の母を説明するのにうってつけのシーンがあったので拝借したいと思います。

雪が、女の子は小動物の骨やトカゲの干物などを集めて宝物になどしない、それがわかって恥ずかしい思いをした、というシーンがありました。そしてそれを理解した母親が、私にワンピースを作ってくれて、それがとても助かったというエピソード。

私の母親は、こういう事に全く疎い、感知しない人でした。これに限らず、私の母親像に、掃除や料理をしている母親像は全く浮かびません。母親と聞いて真っ先に浮かぶのは、テレビ見てる姿です。しかも話の単純な時代劇。水戸黄門がお気に入り。始まっちゃうと終わるまでテレビにかじりつき。何度父親が促したことでしょう。促したところで聞き入れはしなかったけれど。

一緒にキッチンに立って料理をしたこともないし、当然教わる事もない。買い物も一緒に行った事はない。食材はもちろん、洋服を買いに行ったことすらありません。買ってもらった事もありません。化粧もしていなければ、裁縫もしたこともない。

いや、裁縫は、ありましたね。スカート(もらい物)の裾がほころびて、縫った事はありますが・・・学校で当時の担任の先生に指摘されました。「ガッタガタで、色もチグハグ。みっともない」と。見兼ねて「父親」が「ミシン」で縫い直してくれました。ミシンなんて母親扱えません。

洗濯だって常にセーターはチクチクしていて、靴下はピンクに染め上げられました。柔軟剤の存在やセーターの洗い方(手洗い、専用の洗剤で洗う等)白物は分けて洗う、漂白剤の存在、全て後々から知り、母親に何度か物申した事もあるのですが一向にかまう気配はなかったです。自分でできるようになってからは自分でやるようになりました。

なんとなく頼れない、という事は感づいていましたが、はっきりと認めたのは鬱になってからです。私の家庭はごく一般的に母親から教わる色々な物事を何一つ教えられていない家庭だったのです。

機能不全家族という言葉を知りました。父親が父親の役目をしない。母親が母親の役目をしない。だから代わりに家族の誰かがその役目を担う事になってしまうと。

こういうと若干の誤解を招く事になりかねませんが、例えば本当に母親がいないだとか、父親がいないだとかの場合、自覚ができますが、私(家)の場合、なまじ居るものだから期待はする。でもその期待は果たされない。子供がそのまま子供だけ産んだような人。

私が実家離れて一人暮らし(正確には半同棲)始めた時、父親が母親にあの自転車を上げたら?と提案したのを泣いて嫌がったそうです。それは何かの懸賞で当てた自転車で、他に母親専用の自転車があったのです。だから言うなれば誰も乗っていない余りものの新品だったのですが、それを私が持って行くのを泣いて嫌がった、ということでした。私の専用の自転車持って行きましたけどね。後々その話聞いても、あ、そう。という感想でしたが。

どういう訳か母親はクジ運は良くて、商店街のくじ引きだとかハズレを引いた事がない。いつだったかスイカ2個に醤油に米に何か、と5回引いて5回とも何か当ててきた、なんて事もありました。でも宝クジだとか海外旅行だとか大きなのは当たらない。

いつだったか、仲の良い友達の家に遊びに行った時に、その友達のお母様が、友達の胸を気にした「まだ大きさ大丈夫?合わなくなったら直ぐに言って」の会話に衝撃を受けたのです。友達が遊びに来ている目の前でおおっぴらにその話をいきなりする事も驚いたのですが、それ以上に娘の思春期の胸を、気遣う母親に衝撃を受けたのです。何と表現したらいいのかわからない衝撃。

私?私は「そろそろ着けた方がいいよ」と、何と同じクラスの女子に指摘され、そして当時月2000円という小遣いはたいて自分で買ったのです。悩みに悩んでスポーツブラでした。価格980円。母親に相談?しません。そんな事相談も出来ない母親だってわかってましたから。母親ブラジャーなんて持ってませんでしたし。

こんなエピソード、探したらいくらでも出て来ます。飼っていた犬が死んでしまった時に生ゴミとして処理しようとした話だとか。法的には、市役所処理としては何も間違ってはいないです。でもそれが一番安いからって・・・私の貯金使ってペットの葬儀屋に頼みましたよ。

(自分が)悲しくなってきて悲劇のヒロインぶってしまうからこのあたりでやめておきます。

唯一、丈夫に産んでくれた事だけですかね、感謝しているのは。

なりたくない大人の筆頭として上がる私の母親を、ちょっとは伝えられたでしょうか?


その二:鬱時誰のなんというサイトかはもう忘れてしまったけれど、サイトももうないかもしれないけれど、励まされた話。

10年以上半同棲状態だった男とも破局して、もとい同じ屋根の下で暮らしていることも、近くにいることも、同じ場所で同じ空気吸っていることさえ我慢できなかった、なので結構歩いた場所にあったネットカフェで一晩過ごす事が何回もありました。そこでパソコンでチャットしたり、色んなページ見たり、占いしたり色々しながら過ごしました。精神病関係のサイトや、例えば境界性人格障害だとか双極性障害だとか、インナーチャイルド、機能不全家族等の言葉もそれで知りました。そしてどうしても欲しくなり、結構無理してパソコンを買いました。

家でも暇さえあればパソコン開いて色々見ていました。そこでとある誰かさんの文章に巡りあいました。その人の文章によると結構な大企業か、あるいは弁護士だとか、ともかく高収入の仕事についていた人が自分のやりたいことの為に、その職業を辞めた途端、妻の態度が急変し、離婚に至ってしまい、そしてその人はそれをきっかけとして、「妻は私個人ではなく、〇〇な自分」という、背景にあるもの(肩書き)に結婚したのか、と思い悩み、鬱に陥ってしまったような内容でした。

時期的に立ち直りかけていた時に書いたようで、しばらくしたらそこの文章にたどり着くことが出来なくなってしまいました。私のパソコン不慣れのせいなのか、サイトが閉鎖したのか、はたまた当事者が削除したのか、今となっては知る由もありませんが。

そこにとある象徴的な文章が載っていて、とても感銘を受け、私も事ある毎に自分に実行していたので、紹介したいと思います。

内容はあってますが、もう元文章は見つけ出す事も出来ないので、まんまの文章ではありませんのでそこはご了承ください。

「貴方の前に一匹の仔猫がいます。やせ細ってガリガリで、立つのもやっとのような、瀕死の仔猫です。目にはたくさんの目やにがついていて毛もボロボロです。助けてあげなければ明日にでも死んでしまうかもしれません。

その仔猫は貴方自身です。その仔猫を助けてあげて下さい。助けられるのは貴方しかいません。どうぞ抱き上げてください。温かい毛布で包んであげて、目やにを拭き取ってあげて下さい。もしかしたら下痢してるかもしれないし、吐いてしまうかもしれない。でも気持ち悪がらないで、どうか清潔にしてあげてください。医者に行き、必要な処置をして、薬をもらい、ミルクをあげてください。ブラシで毛をすいてあげてください。それは貴方自身なのです。」



その三:親友

機能不全家族まで考えがいたった時、私は小学校からの親友に手紙を出しました。前出の、小学校5〜6年生の時の親友です。知っていて欲しかったのかもしれないし、打ち明けたい欲求というものがあるらしい、それだったのかもしれません。

母親が母親の役目をしなかったんだよ、みたいな。(打ち明ける事は結構悩んだけど)

返事が帰ってきました。大丈夫?だとかそんな気休めの言葉や、でもあなたのお母さんはうんチャラみたいな私の言葉を否定するような事はかいてありません。そういう事はしない親友だとわかっていたから手紙を出す気になったのだから。

書いてあった事に驚きました。実は親友のお母さんは(面識あり)昔、夜中に車道に飛び出そうとした事があったようです。彼女はそれを必死に止めた過去があると。それ以来、朝起きた時にお母さんが家にいるかどうか不安だったと。

親友はとても早起きでした。見習わなくてはと思うくらい早起きでした。でも早起きの裏にはこんな事情が含まれていました。心配だったから熟睡出来なかったのです。

子供の頃、無邪気に遊んでいたが、何十年の付き合いでも何でも知っている、というような事は決してないんだなと思いました。


子供は親の未来

子供は親の未来

だから子供の未来を叩くような行為は
子供の未来を奪うのと一緒

ひいては自分の未来を失くすのと一緒

子供の未来を叩くような行為は
無意識に子供に植え付けられるから質が悪い

多分気が付かない事がほとんど

もし気がついたら未来という希望の光は
一方向からくるものではないことに是非気がついてほしい

それはちょっと斜めからくるかもしれないし
真横からくるかもしれないし

もしかしたら真逆から来ているかもしれない

是非それに気がついてほしい

そして光に向かって歩んでほしい

親の背だけが
道ではないことに気がついてほしい

無い事を嘆くのではなくてあるものを数えてください。

沢山の本を読み漁っていたとき、パソコンで検索しまくっていたとき、そしてセラピストの人に言われたことの中にも必ずあった共通項が三点ほどありました。

その一つがこれです。

周囲を見渡します。そういえば家出て一人暮らし(正確には半同棲)した時は赤帽で引っ越しました。電化製品は全てこっちで買いました。勿論私の貯金で。礼金、敷金その他諸々、貯金はゼロになったな。でも当時は全然不安なんてなかったな、いや、あったかもしれないけれど、希望のが大きかった。今は希望なんてないけれど、生活必需品は揃ってるな。むしろ色々物増えてるな。

とりあえず必要最低限の賃金はもらえてるな。余裕はないけど。寝床もある。ボロ屋だけど。

どこかの本屋でチラ読みしたものの中にこんなのがありました。

「やりたいことがわからなくなったら自分の本棚をもう一度見返してみよう。そこには自分の興味あること、関心のあることが凝縮しているはずだから」

本棚覗いてみました。芝居関係の本と、生活関係の本(収納術だとか引っ越しQ&Aだとか、簡単料理だとか)それから自己啓発本にお金に関する本。その中にただ一冊、かっこよく言うとガーデニングの本がありました。

このボロ屋にした理由。庭があったから。

東側は高台になっている上に家が建っていたから朝日は当たらなかったけれど、昼前から日が沈むまでは日がずっと当たっている、賃貸ボロ家ながらも
戸建てでした。やろうと思えば家の廻りグルッと植物植えることが出来ました。
おまけに雨が降るたび、こちらも高台になっていた北側からの土砂がちょっとずつ流れてきて(築ウン十年、つまり新興住宅地ではなくて古い土地だということで、崩れるという心配はあまりしなかった)ミミズもモグラもいたから、良い土であることは間違いありませんでした。

家族6人の、6畳4畳半、台所だった生家。部屋は勿論、机も2台を1台は弟と故兄、もう一台を姉と私で使用していました。自分専用の空間というものがなかった子供時代において、私が自分の思い通りにほぼ使えたのは隅に父親がこさえた猫の額ほどの庭でした。色んな植物を植えては育て、花を咲かせ、やがて種を取り、又来年植える、そのサイクルが出来ました。あまり家庭菜園には興味なかったけど。

このボロ家もそうだけど、あれこれと内部を手を加えつつ、庭もこうしたい、ああしたいという事を色々やっていました。

日当たりの良くないところでも育つ家庭向けの植物が知りたくて買った本。

鬱になってからは庭なんて全く手をつけていません。そんなに広くはないですが、それでも荒れ放題。ふと思い立って、暖かくなってきたある日、庭の手入れを始めました。と言っても枯れきった様々な植物を抜いただけですが。それでも少し気分がスッキリしました。植物の力って不思議。

それから又日が経って、サフランが咲いているのに気がつきました。

私は元来ズボラです。手間暇かかる植物は花なんて咲かすことは出来ません。だからそう手をかけなくても花が咲いてくれるものを選んでは植えていました。サフランは2〜3年植えっぱなしでも良い球根植物。2〜3年に一回球根を掘り起こして増えて団子状態になっている球根をはがすように一個ずつ取ってまた植えておけばいい。

ただここ何年もそんな事していませんでした。でも春になって咲いてくれました。ひどく感動しました。

階段上がって左に折れて玄関になるのですが、その左側にユキヤナギ。とても大きくなってしまいました。きっと植えた場所の条件がひどく良かったのでしょう。これも毎年咲いてくれていました。自分が植えたい場所に植えた植物の一つ。

芝桜も植えました。これもあまり手間暇かからない植物の一つ。増やし方も簡単。ただ雑草に弱いので、雑草だけは、こまめに抜くことが条件。そして少し乾燥気味の陽当りの良い場所が最適。用はあまり水やりをしなくていいということ。

なんだかんだで意外と住みたかった家には住んでいました。

あと、健康でした。椎間板ヘルニアなりかけだとか、そういうのはあったけれど、とりあえず健康体でした。

他にあるもの・・・

あるものを数える できることの有り難さ

お陰様で、私は五体満足で産まれてきました。五感も普通にあります。話せるし、聞こえるし、見えるし、歩けるし。今は批判される事も多い義務教育ですが、そのお陰で読み書き計算もできます。だからテレビでもラジオでも本でも現在だとインターネットからも、あらゆることは学べば身につきます。幸いにも環境は整っています。ここは日本だから。年中戦闘やっているような国ではないのですから。

確かに私は母親からはほぼほぼ何も教わっては来ませんでした。でもわからなかったら学べばよいのです。自分で調べたり、他の人に聞いたりしたらよいのです。私にはそれが出来るのだから。

感謝

以前にストーカーとほぼ変わらない行為をしていた時期があったと書きましたが、読み漁った本の中にも、散々調べたネットの中にも、そしてセラピストの人にも共通して

感謝をしなさい

というものが出てきました。
でもその感謝の仕方がわからない。そのストーカー行為をしてしまった相手の方にメールでそんな話をしたところ、夜、寝るために布団に入ったら、その時に10分、感謝しなさいと言われました。

当時はチャット全盛期。携帯内でチャットルームがたくさんできた、SNSのはしりのようなところで、気に入った人とはメルアド、個人メールアドレスですね、それを交換して個人的にもやり取りできました。
その中で知り合った、コウさん。コウさんの出した簡単な心理テストに答えたらそれが見事に大当たり、で、今でいうところのメンヘラ状態だった私は一発で「この人しかいない!」と思い込んでしまったのです。
迷惑にもこの人に真夜中でもなんでも長文の長い長いメールを送ったり、ちょっとでも返事が遅いと何回もメールを送信したりと、明らかにカウンセラー代わりにしていました。
また親切にも丁寧な返事をしてくれるものだから、ますます頼るという悪循環。
どうなったか、というとある日実際に会うという約束を取り付けたのですが、待ち合わせの場所に来なかったのです。いま思えばコウさんの戦略だったのかも。
メールも届かなくなりましたが、それでも出会ったチャットルームにその人にわかるような文をカキコして、連絡がいつかくるんじゃないかって、ほんとにストーカー化。そのチャットルームが閉鎖され、連絡取れるだろう手段が完全になくなってやっと諦めがつきました。


そのカウンセラー代わりにしていたコウさんにいわれたのです。就寝する前に10分くらい、両親に感謝しなさいって。
メンヘラ状態でストーカーまがいの行為をしていた相手のコウさんにいわれたのです。疑問を持たずにとにかくやってみようとやってみることにしたのですが、この10分間の感謝ってのができない、具体的にどうすればいいのかわからない。
ありがとうございますって寝床で10分唱えるってできないもんです。早く10分経たないかなっていう、余計な気持ちが混ざり込んでしまう。

そんなときにこの某宗教に誘われたのです。ただもうコウさんとは音信不通だったかな?

本当にこの時の記憶というか、時系列が思い出せなくてごっちゃになってます。ただこの宗教に誘われただとか、そんなメールのやりとりをコウさんとした記憶はないので、もう交信は絶たれていたと思うのです。

パート先の人スイさん(仮名)が辞めたのですが、直前にこのスイさんにお茶に誘われます。なんだろうと思っていたら、とある宗教の勧誘でした。誘われるがまま、ある日曜日に然るべき所に行ったら、人が結構いたのです。驚きましたね。例えば教会だとか、そういった所に全く無縁に過ごしてきた私にとっては、ある意味衝撃的だったのです。こんなにも信者がいるのかと。
こんな時に誘われたのは何かのご縁かもしれない、と誘われるまま、信仰厚いと認められた人にだけ赦され与えられる御本尊(ぼかしますが、掛け軸のようなご本尊の前で行われた)の前で入信の儀式。数珠を買い(500円)俗に言うお経が書かれた小冊子を頂き、やり方と、毎日寝る前と夕方に西に向かって唱える(渡された小冊子音読すること)よう言われました。
朝と夕方にこのお経を唱えないといけないのですが、これがその時の私には渡りに舟。このお経を唱えることを就寝前10分両親に感謝に置き換えたのです。
そして集会やら何やらに数回顔出してみました。

ここの宗教はしば〜らく関わるのですが、鬱が回復するに連れて私個人的に違和感を生じてきたので今は疎遠ですが(何せ布教もしなくてはいけなくて)、大筋は仏教です。ここで仏教っていいな、というか、一番腑に落ちる思考だなって思ったのです。鬱になって読み漁った数々の精神関連の話とほぼ同じ事を語っており、昔の人の知慧ってすごいなって思ったのです。(調べたら知慧も仏教用語でした)

仏教は宗教ではなくて哲学だ、という人もいるのだとか。



                                                        (省略)



エピローグ

鬱回復にあたり、本当に様々な人の何気ない言葉に励まされて1歩ずつ亀の歩みのようにやってきました。
誰かさんの書いた拾った記事目の前にいる瀕死の仔猫は貴方自身、そして助けてあげられるのは貴方だけ。
低空飛行という言葉も心がけてきました。

怒りが湧くということはエネルギーがあるって事だからとは、最後に踏んだ板(芝居)の打ち上げで隣に座った芝居関係の人でしたし、
たまたま見たテレビで北野武さんが監督北野武とコメディアンビートたけしの振り幅が大きくなっちゃったから、ゆっくりやる言ってたのも引っ掛かり、感情の振り幅が大きくなってると感じていた私もやじろべえが思い浮かび、左右への揺れが大きいのに早さまであったら振り回されて落ちてしまう、だからゆっくり左右に振れつつ、少しづつ揺れのふり幅を抑えていこう、そんなイメージが沸きました。

comorebiというサイトもあったんです。ここにも随分書き込みしました。というハンドルネームで。その前の満喫でチャットをやってたときはくもってハンドルネームつけてました。フワフワしてて地に足がついてなくて、成り行き任せの状態だったから。そこからちょっとは重量物になったかなと雨と名乗って、海に辿り付けばいいなって。

あの頃は抽象的イメージが思い浮かぶ事が多かったけれど、そのイメージを大切にしてきました。

男性Tにも男性Kにも、コウさんにもスイさんにも本当に助けていただきました。

ひとつひとつのエピソードはほんのささいなことだけれど、ひとつ何かを私の所に落としては去っていき、また別の何かが来ては別の何かを落として又去っていき、そうして一つ一つ積み重なるごとに段々快復していった、今思えばそんな感じでした。

余力のあるうちに


0には何を掛けても0
自分が鬱になって快復した時に考えた事。鬱に限らず、全ては余力を残しているうちに次の手を打っておきましょう。全力尽くしてゼロにしてしまうと、そこから1に持っていくのに非常にエネルギーを使います。時間もかかります。休まないとエネルギーが貯まらないのです。
1あったらそのうちの0.1でも使って次の一手を仕掛けておく方がいいと学びました。


本物の心理テストサイト内にもあった話だと思いますが、何事も現状維持はそのうち不満が出て来るのだそうです。何事もやっていくうちに慣れてきて、そのうち不満が募るようになるそうです。
その出来た余力をどこかに振り分けていかないといけないのですが、ある人は他人の出来に不満を覚えるようになり、あれこれ言ってくる。これがいわゆるお局様的な行為。
相手を育てるという名目のつもりでしょうが大概は大きなお世話です。言われなくてもわかってる、あるいは、言われた側が「あなたは口出すだけでやってくれないのね」と腹の中では思ってる。
まあお局側は気が付かないのですが。

その余力はもっと自分を高める方にもっていってくれればいいんですけどね。

・・・と、これはある身近な人物を想定してしまっているので、こういう語り口になってしまってます、スミマセン。


余力のある内に次を打っておいた方がいいのではという話でした。

☓最悪の原因帰属(考え方)


失敗した時は、自分の能力のせいと考える
成功したときには運や課題の難易度(外部の原因)と考える

この考え方は成功しても自信がつかない、やる気が高まらない
失敗したときはやる気や自信が大きく損なわれる

◎最良の原因帰属


成功したときは自分の能力のせいと考える
失敗したときには努力のせいと考える(努力や工夫が足りなかった)

成功したときは自分の能力のせいと考えると鼻高天狗になってしまうことを危惧している人は

努力が実った

と考える

確かに難易度が高すぎて到底成功が無理な原因が外部にあることもあるが、それでも努力や工夫が足りなかったと考える。

【ジーパンをはく中年は幸せにはなれない/津田秀樹/アスキー新書 より抜粋】

❊  ❊  ❊  ❊  ❊  ❊  ❊  ❊  ❊  ❊  ❊

子供の頃にはやれ笑っただのしゃべっただの食べただの、ハイハイした、立った、歩いた、ウンチした事まで一つ一つに大人(両親や親戚)は喜んでいたのが、できるのが当たり前になり、親によっては成績が良い事が喜びになり、成績が芳しくないと怒られ勉強しなさいと言われ・・・・・

大人になると就職したら仕事でミスすると注意され、仕事ができてやっと一人前、おおよそ褒められる事はない。

そう、大人になるとほぼ、褒められる事はなくなります。むしろ注意されることばかり。
だからといって必要以上に自分を責める必要はありません。成功しても褒める人などいやしない。だから自分で自分を褒める。失敗は反省し、次は同じ失敗をしないように創意工夫をして努力し続ければよい。そして同じ失敗を繰り返さなくなったらそんな自分の「努力」を自ら褒め称えてあげましょう。

そんなことで自己肯定感は上がっていきます。


実はこれ、鬱から快復するために片っ端から読んだ本の共通項。流れで片足突っ込んだ某宗教、仏教土台の、その仏教の教えにもあったこと。
以前にさらっと(多分)書いたけれど、仏教はこういう幸せになるための考え方の土台にたどりついて、それを、教え広めたかったのではないかと思っています。仏教は宗教ではなくて哲学だといわれる所以ではないでしょうか。


私の物語(人生・生活・生命)はまだまだ続いているのですけれどね、とりあえずどうやってしめようかとかんがえたのですけれど、最近どこだかで知ったこの言葉で

ひきずるより背負ったほうが歩きやすい

                2024・初夏 加筆・修正


#創作大賞2024
#オールカテゴリ部門



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