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ダイナマイトとクジラとキリスト教の教え

この記事が結構見られているというメールがきたので補足したいと思います。

動物を食さないと食べ物が間に合わない。だから畜産を始めます。

高等動物によっては懐いてくれる、その懐いてくれた動物を食べるために殺さなくてはいけない。

これは確かに精神的にきついものがあります。

彼らは「ヒトが食する為のもの」として「神」が造り与えてくださったモノなのだから気に病むことはない、という思考を発見(?)します。

これが基本です。

メンタルを病まないための教え。

だから神には感謝すれど日本のような「いただきます」の概念はないのです。

キリスト教は苦しんでいる人々を救いたいという、宗教の本質はあったのですが、
しかし、のちに権力者の都合のいいように使われた、という時点でダイナマイトと同じなんだなと。

どんなに日本が説明しても頑張ってもクジラが食物ではない物として明確に線引きされたのであれば無意識に押し込まれた思想に反するものであるからどうやっても覆らなかったのも納得できます。


この心の動きを”認知的不協和理論”というそうです。
寓話の酸っぱいぶどうも同じ心の動きだそうです。

狐がある木になっているぶどうを見つけるのですが、どうしても届かない。同じくこのぶどうを食べに来たクマに「このぶどうは酸っぱくて食べられないよ」とウソをつく、という話ですが、狐にとってこの食べられないぶどうが美味しいということに耐えられない(不快)
なのであのぶどうは酸っぱくて食べられない、そう思う事でこの不快感、不協和を解消しようとする働きだそうです。

蛇足話なんですけれど、子供の頃、犬を飼っていたのですが、もう亡くなった父(戦前生まれ)は食べることが出来るという理由で赤毛の犬はやめてくれ言われましたね。



生まれ変わりの思想はなく、基本死んだら無になる。

見事にあちらの歴史を象徴していますね、いや逆か。思想が具現化していると思えばいいですね。日本が長々縄文時代をやっている間、あちらではいくつの民族国家が勃興したことか。いえば刹那的な生き方。

どちらがいいとか悪いとかの問題ではない。ある意味仕方のないことだったのだから。


明確に線引をする考えがあちらにはあります。日本のような曖昧さがないのです。

掃除はそれを仕事にする人がやればいいのだからと思っています。


似たようなことはこちらにも書いてあります。













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