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触れられない体温

私は声が出せない。
出せないというより出すのが面倒くさい。
はじめて固定電話を見た時の事を今でも思い出す。その電話は無機質で、冷たくて、雨の日のコンクリートみたいによそよそしくて冷たい銀色だった。赤と黄色のボタンと、押すと凹むという単純な仕組みさえ私は楽しく感じた。トルネードポテトのようにくるくると回った形をしているコードを無意識に触る。

「まず電話がかかってきたら相手の名前を聞く。要件を聞く。自分の名前は言わなくていいから。」
と母に言われる。防犯上の意味もあっただろうが、私が極力話さなくてもいいようにしてくれたのかもしれない。私は一番自分の名前を言うのに時間がかかるのだ。

ある日、電話がなった。その時、私はココアを飲もうとしていた。大さじ3杯以上をお気に入りのマグカップに入れて、お湯を注ぐ。マシュマロを3個いれて少し考えてもう2つ入れたさなかだった。
カチッというなにか機械が噛み合った音がしてけたたましい音が響いた。耳が割れそうな広い部屋に響く人工音。私はあたふたしながら受話器を取った。
『もしもし』
少し雑音が入っているが低くて聞き取りやすい声だった。馴れ馴れしいような気もする。
細い線からその声は聞こえてきたような気がした。電話の中に人が住んでいて、助けてと言いに来たんだと思って受話器を握る手に力がこもる。
『もしもし?』
私が声を返さなかったせいで向こう側の住人は困っているみたいだ。
「はい」
本当はもっとはやくに声を出したかったけどここ2日まるで声を出していなかったので掠れた痙攣した声しかでなかった。
『お父さんかお母さんはいるかな?』
「いません」
『そっか…』
助けて欲しいんでしょ?だから両親がいない間に電話をかけて来たんでしょ?いまのは確認の電話でしょ?
と声をかけたくて堪らない。なぜ私は声を出すのに時間がかかるのか自分を恨んだ。
『じゃあ、また夜にかけなおします。』
私がモタモタしているから時間切れになってしまったんだ。次があるかもわからないのに。次は救ってあげられないかもしれない。
待って。助けてあげる。出してあげる。と喉が震える。あとは口から出すだけ、空気を吸うと喉に刺さる。言葉がでない。その間にガチャ。と音がして声が聞こえなくなってしまった。
受話器をゆっくり見つめる。ツーツーという単純な音が聞こえる。もしもし?と言いたくてもヒューという音しか出てこない。
ココアはすっかり冷めきって、マシュマロは沈んでいた。

その日の夜、電話がかかってくることはなかった。
次の日、母に急に思い出したかのようにゆっくり昨日あったことを話す。
母は少し眉を顰めて「なんでもっと早く言わなかったの?」という言葉を吐き捨てて私の答えをいつまでも待った。忘れてたの。と2回の深呼吸を挟みながら答えると母は固定電話の前に立ってなにかのボタンを押し始めて電話をかけはじめた。
特有の高い声をだして受話器を耳に押し当てながらペコペコと頭を不自然に下げている。
5分程の電話が終わって、通販の電話だった。と頭を撫でた母の顔がいつもと違って見えた。その日のよる。こっそり電話をかけようと母の見よう見まねをしてボタンを押しても電話はかからなかったし、履歴も消えていた。

あれから数年後、両親は離婚した。原因は母側の浮気である。父に連れられて尾行まがいの事をしている時に母の浮気相手の顔をみた。父と違って端整な顔立ちだった。マスクの下から盛り上がっている高い鼻と細いながらもキツくない目。そして母のあの顔。通販の電話だった。といって撫でた顔と同じ顔だった。父は私の真横で写真を撮っていた。
父、母、その場にいた浮気相手、私。
の4人でファミレスに行って話し合いをした。
母は無言で下を向き、浮気相手は弁解を続けた。父は何度も店員に怒られながらも声をはりあげて私はどさくさ紛れに頼んだパフェをつついていた。はやく終わらないかな。私は一番上に乗ってるさくらんぼを横に置いて生クリームに溺れていた。
父が唾を飛ばしながら怒る。浮気相手は言い訳を吐く。その繰り返しの中、耳に残る言葉が入ってきた。
『そっか、そうですよね。』
と浮気相手が言ったのだ。
『そっか…』
あの時のそっか…。と一緒だった。あの日電話の中にいた彼の声だった。斜め前に座る母と目が合う。「なに?」と言いたげ目をみて、彼に恋をしている女の目だと思って急激に気分が悪くなった。母が女の顔をしている。一気に生クリームが発酵したのかと思った。
あの夜、履歴がなかったのは消していたからだ。そしてよく家の電話にかけてきたなと男に感心した。父が出たらどうするつもりだったのか。男に視線を映すと一瞬だけ私を見てくれた。電話の中でしか交わったことが無い私達が触れ合った瞬間だった。あの日の電話の相手だと彼も悟ったのか驚きと優しさが滲み出ていた。母は2人の視線を瞬時に感じると私を睨みつけて憎悪のこもった目でみていた。
あの日電話の中にいた彼の謝る姿と母の俯く姿をみてなんだか情けなくなった。避けたさくらんぼを思いっきりスプーンで潰して2人の赤い実を弾けさせた気になっていた。

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