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一つくらい忘れていけよ。



朝、目を覚ますと背中から温もりを感じられなかった。微睡みながら人の形に若干凹んだシーツを見て居ないことを確認する。
喧嘩した次の日はいつもそうだ。
些細な事で喧嘩した。
誕生日を忘れて飲み歩いたことだ。
俺は優しい。いつもはやめに謝る。言い訳もせず、逆ギレもせず、目を逸らしながら
「悪かった」
と謝る。
「気にしてないよ」
と目を逸らしながら許してくれたのに、昨日はそうもいかなかった。
女はめんどくさい。
昨日は説教が凄く長かった。この前もこうだったよね。その前もこんなことしたよね。私がなんで怒ってるのか知らないでしょ。など。
女の説教は長い。ずっと目を逸らしてひたすらに話を聞いてやった。その中であいつがいった
「私が君にかける優しい言葉は、私が君に言って欲しかった言葉だよ」
がひっかかった。
なんだそれは。今まで俺が優しい言葉をかけてないような言い様は。俺は優しい。いまでも帰ってきて二時間手足が寒いまんま玄関に立って外に響いているのに黙って逆上せずに話を聞いて、他の彼氏はそんなことないのに。
そのまま話は終わらずあいつは鍵と煙草だけ持ってどこかに飛び出してしまった。
靴下越しからも足が冷えているのがわかる。ほんとにめんどくさい。好きなことに変わりにはない。大切にしたいと思う。でもめんどくさい。帰るべき場所があるのはいいことじゃないか。と非リアのみんなに肘でつつかれることが多い。初めは物凄い嬉しかった。どうだ。俺には彼女がいるんだ。料理も上手い、煙草も許容してくれる。髪も派手だし外見も派手だけどぐっと近寄ってみると意外と幼くて素直になんでも信じられる可愛い性格なんだ。と声を大にして自慢した。
だが付き合っていくとどうだろう。
若干の束縛。同じ料理しか出てこない。俺よりも頭が良くてレポートの内容を見る度に俺が劣等感に苛まれる。怒らないのにずっと過去のことをチクチク言ってくる。同じ趣味がない。飲み会に行くというと悲しそうな顔をする。麦茶は出しっぱなしにする。後でやる。を信じてくれない。
お前らは知らない。帰るべき場所じゃなくて「帰らざるを得ない場所」になっていく苦痛を。


もう3月なのにえらく寒い。鼻をつく空気が冷たい気がした。
あの後腹いせに冷蔵庫の中の酒を全部飲み干した。冷蔵庫の中に置かれた二つのバースデーケーキが邪魔くさかった。チーズケーキが二つ。いちごが食べられないあいつのせいで毎回チーズケーキだ。俺はいちごが好きだし生クリームたっぷりで生地がふわふわなショートケーキが好きなのに。
背中の下に入り込んでいるイヤホンが痛い。背中の下に手を入れイヤホンを探しながら寝返りを打つと台所が見える。毎朝あいつが朝ごはんを作る空気が好きだったのに。今日は味噌汁と卵焼きと白米が食べられないのか。
布団の中でゴロゴロして部屋をぼんやりと見るといつもと景色が違った。
なんだ。なにが違うんだ。ウトウトとひっつきそうなまぶたが徐々に開いていく。
酒缶がないことか?それはいつもだ。散らかった翌日あいつが片付けてくれる。でもあいつはここにいない。本がない。あいつが寝る前にいつも読んでる本が。部屋が異常に綺麗だ。いつもはそこまでじゃない。
腹が雑巾絞りされているようにキリキリしている。ゆっくりゆっくり半身を起こすと小さなテーブルの上に鍵が置いてあった。
なんだ。帰ってきてるのか。どうせ煙草でも吸ってるんだろう。
這うようにしてゆっくり布団から出て洗面台に立つ少し上を向くと胃液があがってくる感覚がある。
呻きながら吐くと少し気が楽になった。鏡をみると気持ち浮腫が取れている気がする。

煙草とライターを持ってベランダに出るとあいつの姿がない。いつも二足あるクロックスが一足しかない。汚い室外機の上の灰皿には吸殻一つ残ってない。昨日干してくれたであろうシーツ。靴下。エアリズム。そこから香る柔軟剤もいつも煙草を吸う時に立つ場所からみる景色も煙草の煙もなにも変わらないのに、なにかが違う。どうせ帰ってくるだろう。という楽観的な自分ともう戻ってこないだろう。というどこか俯瞰に見ている自分とが同時に心の内に存在していると思うと気分が悪くなりそうだ。
そういえばさっき、洗面台に行った時コンタクトのケースがなかった。歯ブラシも。櫛も。いつもお風呂上がりに塗ってたクリームは?あったっけ。
背中からじっとりと嫌な汗が滴ってくるのを感じる。
呼吸が乱れて上手く煙草が吸えない。何度も変なところに入って、ヒューという呼吸音になりながらも、苦学生なので勿体ないという気持ちがあるのかギリギリまで吸ってしまう。
綺麗な灰皿に煙草をグリグリと押し付けるとえらく猫背な吸殻になった。俺が遅く帰って謝った時「気にしてないよ」といいながら料理を作るあいつの猫背に見えてゾッとした。

クロックスを脱ぎ捨て変な呼吸のまま、まず洗面台に向かう。いつも塗ってたクリームがない。歯ブラシもない。大きな宝石箱みたいな粉も、貝殻みたいなネイルもなくなっている。俺があげたシャネルの香水も長い箱にたくさんの色が敷き詰めてあるアレもない。
次にテーブル。いつも乱雑に散らかった狭いテーブルから探し出していた腕時計はおろか、小さなピアスやいつも吸ってた赤マルも髪をとめるピンも投げてあったレジュメも。綺麗に整頓してあるテーブルをみればないのは明らかだった。
台所のコンロの汚れも綺麗に拭き取られていた。
スマホのアラームが鳴ってやっとスマホの存在を思い出す。
そうだLINE。
LINEを開いて非表示リストからあいつを探す。いない。非表示リストが空だ。いつもあいつしか入ってないのに。検索から探す。「ごめんね」と文字を打ち込むと一番上にあいつが出てきたのだが

退出しました。

の文字がやけに大きく見えた。
ブロックじゃない。LINEそのものを消したんだ。下半身が冷たい。背骨を抜かれたように冷蔵庫にもたれかかって座り込む。部屋も綺麗にしてLINEも消して。俺と関わった過去を全て払拭しているように見えた。
なにが悪かったのかなにもわからない。浮気はしてない。飲み会には行くけどそのまんま関係を持ったこともない。どんなに遅くなっても外泊はしない。デート代は全部払うし夜も一緒に寝てた。
俺のなにが不満だったんだ。どうせ別れるならちゃんと話して欲しかった。言われたこと治せるくらいにはあいつの事が好きだったのに。

別れるなら。何か忘れていけよ。
9個もピアス穴空いて、たくさんピアス持ってるのになんで忘れていかないんだよ。よく替えてたネイル一本くらい。キーホルダーとか、リングとか、カラーコンタクトのゴミ。細いネックレスでもいい。ドラえもんみたいじゃん。と一緒に笑った青い髪の毛一本くらい残していけよ。
思い出せないじゃないか。形がない。思い出は薄れていくばかりで物があればまた思い出せるかもしれないのに。笑った顔と怒った顔。
「気にしてないよ」
と目を逸らした顔を一番に思い出すのが情けない。
思えばあいつの毎日聞いてた曲を知らない。何色のライターだったのかも知らない。得意料理は?好きな色は?よく読んでた本は?
俺はあいつのこと好きだと思っていながらなにも知らなかったのかもしれない。
「私の事好き?」
と聞かなかったのも、徐々にあいつから好きだと言わなくなったのも。こいつは私の事が好きじゃないと俺以上に知っていたからなのか。
そう思うと頭が重くなってくる。あいつのことを考えれば考えるほど頭が重くなって下がってくる。
ぼやぼやとスマホをいじって友達に片っ端からLINEする。あいつが何してるか知ってるかという質問に誰もがNOと答えた。
無音が気持ち悪い。自分の若干早い息遣いとはやい鼓動が聞こえてきそうでYouTubeで適当な動画を垂れ流す。
適当な料理動画のせいで食欲を思い出した。
落ち込んでいてもお腹はすくらしい。ハムかなにかでも食べられるものはないだろうか。こんなに誰かを想っていてもお腹は空くのか。
冷蔵庫をあけると中心にバースデーケーキが、一つ置いてあった。俺が好きな酒も、作り置きの春雨も、まだあいつがそこにいる気がして思わず振り返る。
相変わらず部屋は綺麗で誰もいない。ゆっくりバースデーケーキを取り出す。小さなチーズケーキ。おままごとみたいに嘘みたいなチーズケーキ。
ケーキの下に二つ折りになっているルーズリーフが見つかった。あいつがよくやる癖だ。言葉がもつれて言いたいことが言えない時によく手紙を書いて寄越す。
最後の手紙になる。手紙。いつでも書くから読んだら捨ててよ。と笑うもんだから丁寧に読んで捨てていたのに。
ペリペリとラップを剥がして手掴みで食べる。バースデーケーキがあまり美味しくない。向かい側にあいつがいないからだろうか。心ここに在らずだからだろうか。ほんとにただ単に美味しくないのかも知らない。
バースデーケーキがボロボロと崩れ落ちる。
雨の日も晴れの日も雪が降った日もずっと一緒にいるせいでこの先映る景色にも天気にも君がこびりついていると思うと気分が悪い。
触れられないものばかり残していって。
ゆっくり片手でルーズリーフを開く。
あいつ特有の癖のある斜めな字で

君と居たら成長できない。

と青いインクで書かれていた。俺はこの字が好きだったのに。伝えるのを忘れしまった。
いつもいつも、一人で悲劇のヒロインぶってなにも吐かずに一人でどこかに消えて。
一つくらいこの部屋に残していけばいいのに。
君の幼い顔好きだったよ。飲めないコーヒーを頑張って飲もうとするところも、何回もトーストを焦がすから朝はお米だよ。と言うところも、手紙だと大人びて見えるところも、難しい顔をしながらレポートを書く所も、苦手なゲームを一緒にしてくれたところも、チェストピアスを見る顔が猫みたいだったところも、好きだったよ。
言わなくてもわかるだろ。なあそうだろ。
バースデーケーキがあまりにも美味しくなくて、君の真似をして紅茶を入れてみる。変な草の匂いが受け付けなくて残してしまった。
くたびれた後のやけに苦い変な匂いのする紅茶とあまり美味しくないバースデーケーキ。妙によそよそしい部屋が俺の孤独を甘やかしてくれる気がした。
春を呼ぶ柔らかな光が窓からフローリングの汚れを目立たせる。まだ朝だった。

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