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私のおじいちゃん

2017年、父方の祖父が亡くなった。数えで90歳だった。ひたすらに几帳面な性格で、その日の天気、持病の症状、睡眠時間から新聞の主なニュースまで、綺麗な字で日記に書き続けていた。わたしが物心つく頃には既にその姿を見ていたから、たぶん何十年も前から続けていたんだと思う。

そんな固い性格の一方で、祖父は他人に対して常に穏やかで優しい人だった。家族を守ろうとする時以外に祖父が感情的に怒っている姿を見たことはない。
また時代の変化にも柔軟な性格だった。パソコンや携帯電話が流行り始めるとすぐに勉強を始めた。わたしたちの若い価値観や考えも否定することは絶対にしなかったし、強要することも一度もなかった。祖母が先に亡くなったあとも、きちんと生活を維持しようと、いちから簡単な料理を勉強してひとりで台所に立った(そのとき使っていた料理本は祖父の死後に私がもらった)。誠実で聡明で、誰からも信頼される人だった。

私にとっては、そんなふうに『優しくて頭が良くてかっこいいおじいちゃん』でしかなかったけれど、私がだんだん大人になるにつれて、いろんな話をしてくれるようになった。戦争で大学を辞めざるを得なくなった(大学に行けなくなった)こと。魚雷を作る工場で働いていた頃、山越しに長崎に原子爆弾が落とされたキノコ雲を見たこと。気がついたらいつのまにか戦争の中に身を置いていたという感覚。本当はもっと勉強したかったけど、戦後の慌ただしさの中では、働くしか道がなかったこと。
『かっこいいおじいちゃん』の、知らなかった過去の話。
おじいちゃんは何かとてもすごい人だと思っていたけど、当たり前に戦争に恐怖し、絶望してきたのだと知った。当たり前の悩みや葛藤と向き合い続けて、いまのおじいちゃんになったのだと知った。
私にとって、「すごいおじいちゃん」から、一人の尊敬する大人になっていったのは、この頃だったように思う。

私が何かにつまづいたり迷ったりした時は、必ず「自分が納得できるようにやればいい」と見守ってくれる懐の深い人だった。80代も後半になって自分の体がどれだけ弱っても、わたしの健康や進路、兄の結婚式の天気まで気にかける人だった。普通、自分が死ぬかもという時に、他人の結婚式に行けるかどうかはともかく、いい天気で気持ちよく迎えられるかどうかまで気にするか?と私はその時思った。人は、自分が死の淵に追い込まれてはじめて『本当の内面』を他人に知られることもあるんだと思った。良くも悪くも。そういう意味で、おじいちゃんは、間違いなく誠実に、優しく生き続けたんだと思った。

祖父は、生前整理をきちんと終えていた。家のこと。遺産のこと。遺言書には、葬式でかけてほしい音楽(合唱組曲『北九州』と、モーツァルトのAve verum corpus‥‥‥ただしうちは浄土真宗!)も指定してあった。
それから、『葬式では孫にバイオリンを演奏してほしい』と書いてあった。生前、体の悪いおじいちゃんに、演奏会に来てもらうのには少し申し訳なさがあったけど、本当に楽しみにしてくれてたんだなと思って嬉しかった。読経が終わった直後にAve verum corpusが流れる斎場の雰囲気はなかなかシュールではあったが、経緯や形に拘らずに美しいと感じたものを大切にできる、祖父らしい式だと思った。

誰だって死ぬ時に後悔はゼロにはならないと思う。祖父だってそうだと思う。でも、祖父のように、自分と他人に誠実に生きていれば、こうして周りに見守られながら惜しまれながら死んで行けるんじゃないかなと思った。いや、惜しまれながらってのもちょっと違うのかも。どちらかというと、生きてる側が、もっと話したかったとか会いたかったとかそういう惜しさ。『おじいちゃんはもっと生きてこれをしたかっただろうにね』、みたいには殆ど思われてないはず。だって祖父はいつでもベストを尽くして(後悔のないように準備して)生きて来たし、ベストを尽くせるように自分の健康ともきちんと向き合って調整しながら生きて来た。他人から見ても、きちんとやり遂げた立派な人生だったと思う。5年経った今でも、おじいちゃんの生き様をよく思い出す。これこそが、おじいちゃんが生きる私たちに残してくれたものだと思う。

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