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緩やかな死を求めていたとき献血に行った話

※この文章は献血及び日本赤十字社に対するマイナスイメージを与えること、自殺や自傷行為を奨励することを意図しません。

先日、近所のラーメン店に行ったら、熱いおしぼりが渡された。そのとき不意に、この感覚に既視感を覚えた。

それはちょうど1年前のことだ。はじめて献血に行ったとき、腕を温めるのに、こんな感じのものを当てられたのだった。

その当時、私は何もかもうまくいっていなかった。学校行事に部活、学校外の課外活動に勉強など、さまざまなタスクが立て込み、4つくらいのプロジェクトを同時進行で管理していた。経験もないのにリーダーになり、過剰なタスク量をさばききれなくなっていた(今思えばあまりに未熟だ。グループで仕事にあたっているのに、全く仕事を分配していなかったし、一人でやるにしてもやり方が非効率だった)。そうなれば、心身に不調も出る。まっすぐ歩くこともままならないほどに消耗し、頭の中では常に自殺という選択肢が渦巻いていた。思えば、当時の私は緩やかに死に近づいていたのだろう。

とは言っても、やはり実行に移す気は起きなかった。

やり方は知っていたのだ。きわめて簡単な手順で、体のある部位を破壊すれば、12秒足らずですべてから解放されることが可能だった。そしてこの方法は、多量の出血を伴う方法だった。

俺の死体を処理する人は、後に残った血まで掃除しなきゃいけなくなる。もう、人に迷惑はかけたくない。俺は多くの人の1年を棒に振った。これ以上、どうして人に迷惑をかけられようか。そうだ、先に血液を減らしておけば良いのだ。警察か救急か知らないが、そうすれば死体を処理する人の負担も軽減される。献血だ。あわよくば俺の分まで、誰かに生きてもらおう。400ml全血献血をした後に、まだ死にたかったら河川敷かどこかで決行しよう。

滅茶苦茶な結論である。正常な思考さえも障害されていたのだろう。かろうじて残っていた、かすかな生存本能が、献血という結論を出した。当時の年齢17歳、体重54kg。400ml献血を行うことができる最低ラインギリギリの条件だった。学校帰りでコートも着たまま、カーテンも閉め切ったまま、食い入るように覗き込んだ日本赤十字社の公式サイトはそう言っていた。奇跡的に助かった気がした。

そうして私はバスに乗り、駅前の献血センターを訪れた。センターがあるビルは、中学生の時に来たことがある。高校入試対策の学力テスト会場だった。

「予約されていない方ですと、1時間ほどかかりますがよろしいですか?」

受付の人が尋ねた。答えはyesに決まっていた。空は暗くなり始めていたが、そんなことを気にしている場合ではない。血液を抜き取り、誰かのもとに届けるという使命が果たせなかったら、私の存在意義は今度こそ消滅してしまう。

やがて手元のポケベルが鳴り、問診ブースに呼ばれた。血圧は献血できるギリギリの低さだった。目の前の白衣に拒否されないように、社会全体から拒否されないように、全身を奮い立たせて計測した結果だった。そのまま献血ブースに通される。電気椅子に座る死刑囚のように、脱力して椅子に体を預けた。係員が私の右腕を掴み、血管の場所を探っている。目の前には、テレビを垂れ流しにしているiPad Proがあった。見る気にはなれなかった。

「手、冷たいですね」

そういって係員は、熱いタイプのおしぼりみたいなものを5個くらい持ってくると、私の右腕に押し当てた。私の体は、葬式で見たことのある色をしていた。

寒さ、暗さ、空腹、孤独。このような要素がそろうと、人は心を病み、死にたくなるのだという。右腕に押し当てられたモノが、寒さを取り除き、私の思考は可塑性を取り戻した。

係員はiPad Proを操作し、画面をYouTubeに切り替えた。小学生が見るような、派手な効果音と縁取りの付いたテロップのしょうもない動画が流れ始めた。右腕がチクリと痛む。採血用の針が腕に入り込んでくる。その適度な痛みは、まるで私が社会に貢献するために払った犠牲のように感じられた。

そのまま画面を眺めていると、どんどん体が軽くなっていくような感じがした。目の前のYouTuberがとったリアクションに、思わず笑みがこぼれた。視線を右に向けると、パウチには赤黒い液体がたまっていた。パウチが膨らんでいく満足感から、さらに顔を歪ませた。

「これで終わりです。立てそうですか?」

係員が針を引き抜きながら言った。私は素早く立ち上がり、勇み足でロビーに戻った。まったくふらつくことなく、しっかりとした足取りで。まるでさっきのパウチに、鬱々とした気持ちも排出してしまったような気がした(そんなはずはない、あれはただの血液で、きっと誰かの役に立ったのだが)。

ビルを出て、冷たく乾燥した空気を思い切り吸い込んだ。深い呼吸が、肺の隅々まで清涼な空気を巡らせ、淀んだ呼気と置換された気がした。もう、死ぬ気にはなれなかった。

熊野の山岳修行で、断崖を覗き込み、死を疑似体験するというものがあるという。極限の恐怖という、いわば疑似的な死を味わうと、人は初めて精神的なバランスの取れた人間になれるのだそうだ。

翌日か、翌々日に赤十字社からハガキが届いた。私の血液は、極めて正常な組成をしていたことがわかった。君は外れ値ではないよ。そう言われた気がした。

私は献血を通じて、少量の出血という疑似的な死、それもリストカットなどとは違う、社会的にも認められる行為を経験し、精神の安定を取り戻したのかもしれない。

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