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英語はなぜ難しいか?     (音声・会話編④ sideについて)

 英語ペラペラ(私自身がまだペラペだが😅)、English speakerを目指して英語の音声・会話について考察する、『英語はなぜ難しいか? 音声・会話編』。第3弾からメチャクチャ間が空いたが、第4弾の今回は、Englishの思考にシンクロするために有効な「side」の概念について説明する。
 以前の記事で予告した ↓ が、「音声実践編」が一段落ついた今回、とりあげることにした。


 本記事は、これまでの音声編とは別の意味で理解が難しい。「言語」というより、「価値観・文化」についての話だからだ。他言語を受け入れることは、背景にある価値観を受け入れるでもある。この辺りを経験的に理解しているかどうかで、本記事の難易度は変わってくる。

 逆の言い方をすれば、本記事を理解することを通じて、いわゆる「多様性の容認」「異文化理解」についても理解できるだろう。
 ガラパゴス日本においても、社会の価値観が大きく変わりつつある。

 まずは、本記事の要約を。

特定の言語を使いこなしているということは、その言語の発想・価値観にシンクロしているということだ。英語と日本語では、「誰の話なのか?」に対する感覚が異なっている。加えて、人間が決めてはいけない領分もある。主語に対する感覚を変えると、英語表現が覚えやすくなる。両言語の相違を理解し、英語にシンクロする感覚を身につけることが大切だ。

 では、始めよう。


①「side」とは何か?


 ある発言をする際に、「誰が言っているのか」「誰がしたことなのか」を明確にする概念である。少し難しい表現をするならば「責任主体」となるのだが、日本社会では「responsibility」や「accountability」が誤解されていることが多く、「責任」の概念が独り歩きしている。そこで、本記事では「side」という表現を用いる。
 ちなみに、「side」は私の「個人言語」だ。通常は、「敵か味方か?」という意味合いで用いられる。「I'm always on your side」や「No side」などの表現を聞いたことがあるだろう。

 「誰が言っているかなんて、すぐ分かるだろう」「誰がしているかなんて、間違いようがない」と思っただろうか? では、次の問題に挑戦してほしい。

 
空欄を埋めなさい。
    He often says, "I am Gian.”
→ He often says that(       ).

 空欄補充問題は好きではないのだか、説明の都合上お許しいただきたい。

 貴方も、高校生のときに苦戦した問題ではないだろうか? あるいは、現在進行形で苦戦している?



 正解は「he is Gian」だ。

 「間接話法」と呼ばれ、「"“を外すと、代名詞・動詞・副詞が変化する」という説明がなされる。

 
 では、日本語だとどうか?

 アイツ、「俺はジャイアン」って言ってる。
→ アイツ、はジャイアンって言ってる。

 細かい訳語は気にしなくて良い。英文にはoftenがあった方が自然だが、日本文では特に必要ない。あと、「he=彼」などと間違っても思わないこと。

 日本語では「」があってもなくても「俺」のままだが、英語では"“が外れたことによって、「I am」が「he is」に変わった(?)ことに注目してほしい。これはどういうことか?


 「I am Gian」と発言しているのは「he」であり、「He often says〜」と発言しているのは「話し手」である。両者は別の人間である。
 「He often says I am Gian.」だと、「he」が「I=話し手」のことを「Gian」と言っていることになる。日本語にすれば、「アイツ、私のことをジャイアンって言っている」。これでは、元の文と伝えている情報が異なってしまう。

 とまあ、ここまではどの参考書にも書いてあることだ。本記事では、さらに踏み込んで、この現象が日本語話者にとってなぜ難しいかを考察する。

 それが、「side」の違いである。日本語では、自分の事ではないにも関わらず、「俺」という表現をする。話し手が「アイツ」と一体化しているからだ。自分が誰かになりかわって「俺」と言っても違和感はない。「アイツは、アイツがジャイアンだと言っている」という言い方をされると(英語はこの言い方をしている)、「?」となってしまう。
 
 それに対して、英語では「自分は自分、アイツはアイツ」であり、地の文で「I」と言えば「話し手・書き手」のことである。この、自己と他者の区別に対する感覚が、英語と日本語では異なる。本記事で伝えたいのは、この「sideのズレ」だ。

 なお、英語においても「他者と一体化して、Iと言う」ことはある。小説家などで用いられる、作者が登場した人物と一体化する表現だ。「描出話法」「中間話法」と呼ばれる手法だが、日本語にも存在するので特に問題はないハズだ。



②It's not your business!

 
 元来、日本社会は「和をもって貴しとなす」社会であり、良く言えば仲良く、悪く言えば相互干渉して人々は生きてきた。その結果、日本語話者には「人称」の概念が非常に捉えづらくなっている。
 人称とは、「1人称がI、2人称がyou〜」というアレだ。日本社会においては、この区別がしばしば曖昧になる。

 「そんなバカな‼️ 自分と相手の区別くらいついている」と思った貴方に、いくつか質問したい。

・貴方は子ども(血縁的な意味でもイイし、周りにいる子ども、あるいは生徒でもイイ)が、自分とは異なる他者だと認識しているだろうか? 自分の人生観や価値観を押しつけていないだろうか?

・貴方は外出時にマスクをしている。一方、マスクをしていない人も存在する。貴方はどう感じるか?「非常識な人だ」などと思っていないだろうか?

・5人でレストランに行った。美味しそうな肉料理があったので、「皆で食べよう」という話になった。ところが、ある人が「自分は肉が苦手だから、魚料理の方がイイ」と言い出した。貴方はどう感じるか? 「空気が読めない奴だ」などと思いはしないだろうか?


 とまあ、挙げていけばキリがない😅😅。私の言いたいことは、大体伝わったと思う。

 自己と他者の区別がついているということは、自分と異なる他者を受け入れることに直結しているのである。「異端を認めない社会」「同質社会」としばしば揶揄(やゆ)される日本社会だが、上記のような場面で抱く感想は、日本語・日本社会と密接に関連している。
 貴方自身に思い当たる節がなくても、周りに該当する人がいることだろう。
 別に、それが「悪い」と言いたいのではない。英語と日本語、それぞれの背景にある価値観を知ることが両言語の理解につながる、ということが言いたいのだ。

 
 私は、「日本語には人称がない」と考えている。自分も相手も他の人もイッショクタにした表現、「みんな」があるだけだ。そう、ドレミの歌で言うところの「ミはみんなのミ」である。ちなみにEnglish versionでは「Me, a name I call myself」。この辺りにも、両言語の「人称」に対する感覚の違いが表れていると思う。

 そして、「人称」の捉え方の相違は、自己と他者をどう捉えるかという社会的価値観に由来する。「文化的背景の違い」「基盤となる宗教の違い」など、貴方もどこかで耳にしたことがあるだろう。

 英語は「キリスト教を背景にした言語」である。貴方が真に英語を理解し、英語にシンクロしたいと望むならば、キリスト教の理解は避けて通れない。これは何も、細かい教義を知っておくとか、分派の歴史(世界史で学ぶ)を知っておくということではない。英語とセットになっているキリスト教的価値観を経験する必要があるのだ。
 
 英語の成立(何をもって言語の成立とするかは難しいが😅)は明らかにキリスト教の成立よりも後であるため、これは当然のことだ。
 まあ、ヨーロッパ言語は全般的にそうだし、アラビア語は「イスラーム教そのもの」と言ってもイイくらい宗教の影響を受けているが。

 要するに、言語を単なる技術の問題だと思っているうちは、英語にシンクロなどできないということだ。




③日本社会も変わり始めている
 

 しかし、ガラパゴス日本社会も近年急速に変わり始めている。「他者への干渉」に対する考え方が、大きく変わっているのだ。いわゆる「大きなお世話」「うっせぇわ‼️」である😄。

 英語では、
「It's not your business!」あるいは、
「None of your business!」などだ。この辺りは、英語教育の浸透(?)が、日本語話者の感覚を変えてきていると感じる。

 私は1年前にEnglish speakerになれたのだが、その要因の一つにコチラ ↓ の歌が挙げられる。


 長年日本社会を支配してきた「同調圧力」からの脱却が、現在進行形で起きている。この歌はその象徴だと思う。

 英語を「自分の言語として使う」ということは、英語の感覚にシンクロしているということでもある。従って、English speakerが「同調圧力」をかける側になることはない(と信じさせてくれ😅)。
 マスクをしていない人を白い目で見ているうちは、英語をできるようにならない(上記の対偶)と考える。



④意識しておきたい「side」

 
 自分と他者(どんなに親しい間柄であっても)を明確に「別の人間」として区別することの重要性が理解できただろうか。

 私の記事で何度も述べてきたことだが、「言語を使いこなす」とは「言語の感覚を掴む」ということである。「勉強」はほとんど無力で、「練習」あるのみだ。

 ただし、「練習」の際に意識すると良いことは予め知っておくと有効だ。今回の「side」は、英語のやりとりを練習する際に(少なくとも初習段階では)意識してほしいことの1つだ。

 中でも日本語話者に難しいのが、次に紹介する「God side」(私の造語)であると考える。

 It is sunny today. の「it」は、天候・時間・距離などを表す際の主語だと、よく説明される。
 では、なぜこのようなケースを特別扱いするのか? それは、Godが決めている(と無意識に思っている)からだ。現代のEnglish speakerからは失われつつあるらしいが、少なくとも英語の成立段階では多くの人々が共有していた(common)感覚だ。

 人間の身で決めてはいけないことがある。この感覚にシンクロできると、例えば特別な才能を「gift」と呼ぶ理由が納得できる。まさに「special present from God」なのだ。本人だけのものではなく、その才能を他の人々のためにも使う「duty」がある。

 他にも、不運に遭遇した時の「Oh, my God」、人を祝福する時の「God bless you」など、英語の表現の背景にある価値観・認識を知っておくと、より英語にシンクロしやすくなる


 ということで、今回はここまでだ。日々の練習を通じて、英語の感覚に慣れてほしい。決して頭デッカチにならないこと。May God help you!

異文化理解?
理解じゃない、シンクロだ

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