【雑感】未来への手紙

 約2年前、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読みながら、毎日少しずつ、その日読んだ箇所の読書記録をSNSに付けていた。誰に読まれる訳でもない。しかし感じたこと、考えたことを言葉にしたい必然性に駆られて、そうしていた。
 しかしその後、一時的な衝動からなのか、SNSで情報に触れすぎることがいやになって、アカウントごと消してしまった。
 今更になって、当時付けていた読書記録を読み返したくなる。しかしどこにもそれは残っていない。恋人との写真がすべて焼け消えてしまったようなやるせなさを感じて、胸が痛む。
「自分の書いた文章は取っておいたほうが良い。それは未来の自分への手紙になるから」と言った作家がいる。批評家の若松英輔氏だ。今野書店でのトークイベントで、そのように話していた。
 今更ながら、この言葉が染みる。
『カラマーゾフの兄弟』を読みながら付けていた読書記録のなかに、今の自分にとって必要な言葉があったかもしれない。未来の自分が必要とする言葉を、当時の自分は書いていたかもしれない。SNSではなく、紙のノートにでも書きつけておいて、押し入れの奥にでもしまっておいたほうがどれだけよかっただろうと悔やまれてならない。
 たしかに再び『カラマーゾフ』を読み返しながら、同じように記録を付けることは可能だ。
 とはいえ、人は同じ書物を全く同じように読むことはできない。情報だけが書かれてある新聞や記録書のような書物ではなく、文学という、人生経験を以って読む書物に関しては、とくにそうだ。一度目には一度目の、二度目には二度目の所感がある。
 約2年前の僕と今の僕とが、地続きの同一人物であるなら、書かれた言葉は消えても、その言葉の源泉であるところの精神は消えていない、と言えるだろうか。そうは言っても勿体ないと思わざるを得ない。次に読み返すときは必ず消さないようにしなければならない。それが十年後の自分への手紙になるかもしれないから。

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