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静と動の日曜日。

少量の服を洗濯し、壊れてしまったバングアンドオルフセンのスピーカーを修理に出すことから、この日の日曜が始まった。

今日はソールライターの展示会へ出かける。昨晩、大学の写真仲間からナイターでヤクルト対ディーエヌエーを観に行かないかと誘いを受け、それであればとソールライターの展示にも行かないかと、自分から誘ったのがきっかけだった。

その友人とは不思議とお互い心地のよい距離感が生まれていた。距離感と言うと、遠くにいるように聞こえるし、実際に会う頻度もそこまで多くはないのだけど、会えば学生時代に出会ったときの「あ、見つけた」というあの感覚が思い起こされる。どちらからということもなく、距離が近づき、大学を卒業する3月には、2人で札幌から東京まで青春18きっぷで南下したことを思い出す。グループによくある、ふたりになると急に会話に詰まる、あの気まずい感覚。「次は何を話そうか」と頭をめぐらす、錆びついた時間。それをこの友人には微塵も感じたことがなかった。今回のソールライター展の誘いも、勇気も戸惑いも纏うことなく、ごく自然にLINEを送っている自分がいた。

ソールライターを知ったのは最近のことだった。カラー写真のパイオニア。そう呼ばれる写真家がどのような色味の写真を撮るのか、シンプルに気になったと同時に、最近あまり撮らなくなったスナップ写真を、きちんと時間をつくって、じっくり見つめてみたかった

渋谷ヒカリエで待ち合わせをし、会場へ向かった。色彩はもちろん美しかったのだが、普遍のなかに雄弁さが湧き立つ自由な構図とシャッターを切るタイミング。ニューヨークの街中に一瞬だけ、それでも確かに訪れる機微の数々。ああ、写真を楽しむというのはこういうことなのだと改めて感じさせてくれる展示だった。小さな枠の中に映る、ポジフィルムの鮮明さと繊細さ、解像度の高さと色彩の豊かさにも心打たれるものがあった。


展示の前半に、若い頃のアンディ・ウォーホルを収めた1枚の写真があった。アーティストをアーティストたらしめる1枚ではなく、1人の人間として捉えて、スナップと同じ視点で撮影していた。イラストレーター、振付師、デザイナー、そして写真家。数々のアーティストと交流のある環境とそれを自ら生み出せるソールライターに少しだけ羨ましさを覚えた。何枚かのポストカードと相方のお土産にドリップコーヒーの入った巾着を買って会場を後にした。




野球観戦の場所は、明治神宮球場。実はこの日が自分にとって生まれて初めての野球観戦だった。


始球式、チアリーディング、汗をかきながらスタンドを闊歩する売り子の響く声。マスコットキャラクターが催すイベント、5回裏終了後の花火。まるでプロの試合というよりも縁日に来たかのような感覚ですべてが新鮮だった。そしてこの感覚が野球を国民的スポーツたらしめているのだと思った。意外にも応援しているチームが守備に回るときはお酒やおつまみ、ご飯を買いに一度席を離れるファンが多かった。サッカーであればそうはいかない。前半、後半の約90分は試合に集中しなければならないし、ハーフタイムで買ってきたお酒やおつまみに気を取られていると、下手をすれば気づかぬうちにゴールネットが揺れている、なんていうこともある。その点野球は、打席ごとに流れが切れて一息つくことができるし、打者が変わるごとに、おそらくその打者が指名したお気に入りの曲がスタジアム全体に響き渡り、これがまたそれぞれの個性が垣間見えて面白い。野球に詳しくない自分でも純粋に楽しいと感じることのできる時空間だった。

昨夜の土曜はしたいことがあまりできず、ダメな休日だったからか、この日の日曜は静と動、芸術とスポーツを体験し、気分よく寝れそうだ。野球観戦に連れ出してくれた、友人に感謝のLINEを送って、眠りについた。


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