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ワンダーランドに連れてって!

「私と姉との距離は物理的な距離ではないの」
 と、彼女は言った。

「沖縄から北海道までゆっくり歩いても三ヶ月で着く。車なら一週間。新幹線なら半日。飛行機を使えばもっと早い。でも、例えば六本木ヒルズの高級マンションはどうかしら。多分、あなたでは一生かかっても辿り着けないでしょうね。あなたと六本木ヒルズの金持ちは『同じ日本』で『異なる世界』に生きているからよ」

 僕は首肯した。放課後の第二図書室には僕と彼女の他には誰の姿もなかった。彼女の後ろの本棚には格調高い重厚な背表紙に分厚く埃を積もらせたシェイクスピア全集が並んでおり、うち一つは『ロミオとジュリエット』だった。
 あるいは図書室で『ロミオとジュリエット』を読む人間と視聴覚室で『ウエストサイド物語』を観る人間も異なる世界に生きていると言えるのかもしれない。

 僕は備忘録に万年筆で今日の日付を記入すると「異世界」と丁寧にメモを取った。

「お姉さんが消えたのはいつ?」
「七年前。姉も私も小学三年生だった」

 備忘録に「七年前」「小学三年生(九歳)」と単語がメモされた。第二図書館の静寂は、しばらくすると僕が万年筆を走らせる音を吸い込んで再び完全な沈黙を呼んだ。

 彼女は小さく咳払いをした。

「姉と私は、月水金の週三回、家から電車で一駅のところにある学習塾に通わされていたの。午後六時から午後九時までの三時間講義。それから、午後十時まで一時間の自習。火曜日と木曜日は音楽教室でピアノの、土曜日は絵画教室で油絵の稽古があった。日曜日になると、両親は姉と私を演奏会や舞台演劇に連れ出した。本当につまらなくてくだらないやつ。姉も私も子供の頃からずいぶん審美眼を養わされたけれど、おかげで両親が三流以下の人間だということがよくわかったわ。音楽教室や絵画教室の他の生徒の親を見ていると嫌でも思い知るのよ。ああ、私の両親は三流以下なんだな、って……」

 僕は少し眉をしかめ、彼女の怒りと憎しみに同調するように首肯すると、備忘録に「過密日程」「親子関係は険悪」と単語を増やした。彼女は嫌な気分を落ち着かせるように眼鏡を取って眉間を細い指先で押さえた。銀色をしたチタン製の眼鏡で、つるの目立たない部分に植物の蔦を模した非常に凝った意匠がある。

「あなた、管弦楽は何が好き?」
「ルロイ・アンダーソンの『そりすべり』」
「他には?」
「『タイプライター』」

 彼女はほんの少し肩をすくめた。多分、僕が冗談を言ったと思ったのだ。

「私も好きよ。『トランペット吹きの休日』とか。両親からは『運動会の曲だ』ってバカにされたけれど。彼らはオッフェンバックの『天国と地獄』を聴いても『運動会の曲だ』としか言わないの。正真正銘の救い難いバカなのよ」

 僕は備忘録を「親子関係は(非常に)険悪」と書き直した。

「お姉さんの消失は本当に突然だった?」
「何か予兆がなかったかということ?」

 僕は首肯した。彼女は眼鏡をかけ直すと眉間に軽くしわを寄せて目蓋を閉じた。記憶の底に手を突っ込んで何かを引っ張り上げようとするみたいに。

「どうかしら。姉も私もずっと現実から逃げたいと思っていたの。でも、九歳の子供には我慢して耐えるしか他に方法がなかった。何か機会があったなら別だけれど」
「機会があったなら」
「お茶会に遅れそうなうさぎを見かけるとかね。姉も私も喜んで穴に飛び込んだはずよ。落ちた先がどこであれ今よりずっとましな世界であることに疑いの余地はなかったもの」

 僕は備忘録の「どこであれ」という五文字を下線で強調した。

「今は?」
「今の話が必要?」
「過去と現在の二点間の距離と角度からお姉さんの位置が求められる」
「三角測量ね」

 僕が首肯すると、彼女は視線をさ迷わせた末に長い睫毛を伏せた。読書机に降り注ぐ斜陽のなかに不吉な妖精の影を見出したように。

「姉が消えてから両親は離婚したの。酷い離婚だった。独立戦争みたいなものね。私は父に引き取られた。母とはとても一緒に暮らせなかったから。父の実家は祖母の一人暮らしで、祖母は随分まともな人だった。私がピアノでお誕生日の歌を弾き語りしてあげると凄く喜んでくれるの。私はようやくまともな家族を持つことを許されたのよ」

 備忘録に「離婚(独立戦争)」「父方の祖母の家」「ピアノ」と三単語をメモしながら、僕は万年筆のペン先を止めることなく彼女へ尋ねた。

「ピアノは?」
「え?」
「アップライト?」
「いいえ、フルサイズのコンサート・グランドよ。どうして?」

 備忘録を「父方の祖母の実家(郊外の大邸宅)」と修正すると、僕はページを捲って最上段に「消失の様子」と見出しを書き入れた。

「お姉さんが消えた時は一緒だった?」
「同じ塾から同じ家に帰るのよ。当たり前でしょう?」

 僕は返答を保留した。

「誘拐という可能性は?」
「ない。単行車両なのよ。田圃の真ん中に敷かれた線路を運転士を乗せた一両の列車が群れからはぐれたマスのように真っ直ぐ走っていくの。私は、姉が消えたことに気づいてから、車両の端から端まで姉を探した。でも、姉は見つからなかった。あとから警察が運転士や乗客に事情聴取をしてくれたけれど、見ず知らずの子供のことなんか誰も見ていなかった」
「詳しく聞かせて欲しいな」

 彼女は「ええ」と首肯した。

「七年前の五月十三日、金曜日の夜。姉と私はいつも通り三時間の講義と一時間の自習を終えて学習塾を出たの。駅までは他の友達も一緒だった。でも、私の家はみんなとは反対方向だったから、電車が来ると姉と二人きりになった。

 姉も私も塾から帰る時はいつも酷く疲れ切っていたわ。家族や学校の教師や塾の講師は姉と私をおとなしい姉妹だと思っていたみたいだけれど、実際は疲れ切ってまともに遊ぶことができなくなっていただけなの。姉も私も『疲れた』が口癖だった。

 あの日も、電車の座席に座ると姉は『疲れた』と言った。私が頷くと、姉も頷き返した。土曜日の絵画教室の課題がまだ完成していなかったから、家に帰ったら寝る前に仕上げてしまわなければならなかった。月曜日には学校で合唱会の練習があったからそのためのピアノも練習しなければならなかった。日曜日は家から連れ出されるし、月曜日は学校と塾があるから、ピアノが自由に練習できる時間は土曜日の夕方くらいしかない。月曜日の塾では中学受験の模擬試験があった。火曜日の音楽教室では合唱会とは別のピアノの課題曲の発表会もあった。

 姉も私も本当に疲れ切っていたの。

 でも、家に帰ると両親が新しく注文した岩波文庫の文庫本が姉や私の学習机の上にどっさりと置いてあるのよ。エックハルトとかショーペンハウアーとか、注文した本人ですら一冊も読んだことのないやつ。あなた、エックハルトやショーペンハウアーを読んだことはある?」

「内容はぜんぜん覚えていない」

「両親は私たちに一日十冊は本を読むようにと言ったわ。頭が良くなるから、って。おかげで、姉も私も不必要な知識をたくさん抱え込むことになった。学校の成績は落ちたけれどね。他の勉強に忙しくて学校の勉強をする時間がぜんぜんなかったのよ。

 姉が消える前日、両親は、晩ご飯を食べながら姉と私の塾の時間を増やすことを話し合っていた。姉は、半ば死んだような顔でご飯をゆっくり長い時間をかけて食べていたわ。私もそう。食欲はまったくなかったけれど、食べなければ身体がもたないことはよくわかっていた。あの日も、電車の中で姉と私はビスケットを半分こして夜食に食べていた」

「ビスケットは?」
「消えたかどうかということ?」
 僕は首肯した。彼女は首を振った。

「姉は、ビスケットを半分残して箱と一緒に私にくれた。私は、姉の白い手がビスケットの箱を持っているのを見たと思う。

 でも、顔をあげると姉は消えていたの。

 四人掛けの座席で、姉が窓側、私が通路側に互い違いに座っていた。姉が通路に出るには私の前を横切らなければならないし、窓は七歳の子供が身を投げるには狭すぎた。姉は、消えたのよ。何の前触れもなく、唐突に。私の目の前で……」

 彼女の伏せられた目は、遠い過去の――十六歳の少女にとって七年前は「遠い過去」なのだ――色褪せた記憶を見ていた。僕は備忘録にメモを取る手を休め、彼女の詳細な外見をしばらく観察した。

 年齢は十六歳。身長は同年代の平均身長とほぼ同じ一六〇センチ。ただし、股下は平均値より十センチ以上も長く、したがって座高は十センチ以上も低い。椅子に座ると顔の小ささと相まってとても背が低く見えた。

 背中まで真っ直ぐ伸びた髪の毛は夜の静寂を思わせる詩的な黒さを帯び、きめ細やかで瑕一つない白い肌は精巧な蝋人形のように生活感に乏しく、睫毛の本数に至るまで左右対称な端正な顔立ちは、部分的には溜息が出るほど美しく見えたが、総体的には他人の心に親愛の情より畏敬の念を呼び起こした。

 僕は軽く目を閉じ、目蓋の裏に彼女と瓜二つの双子の姉の姿を思い浮かべてみた。彼女と同じ家に生まれ育ち、同じ学習塾に通い、同じ教室でピアノと油絵を習った十六歳の少女の姿を。

 しかし、試みは失敗に終わった。

 彼女の姉は、目の前で姉が消失したり、独立戦争のような酷い離婚を目の当たりにしたり、父方の祖母の家で自由気ままにピアノを弾きながら育ったりしなかったのだ。七年の歳月は、彼女の言う通り双子の姉妹を論理的に遠く離れた場所へ押し流してしまった。

 僕は備忘録を閉じ、万年筆を学生服の胸ポケットに挿すと、読書机の上へ両手を揃えて置いた。読書机の半分は窓辺から差し込む西日で赤く染まっており、彼女は光の側に、僕は闇の側にいた。

「姉を見つけられると思う?」
 僕は「多分ね」と頷いた。彼女の眼差しはにわかに険悪さを帯びた。
「どうして? もう七年も前の話なのよ」
「五十年経った今も月にはアポロ十一号の乗組員たちの足跡が残っている」

 彼女は首を振った。落ち掛かった前髪が一足早く訪れた夜の先触れのように項垂れた彼女の表情を隠した。

「あれから警察も随分きちんと捜査してくれた。小学生の失踪事件だもの。テレビや新聞でも大きく取り上げられたわ。でも、誰にも見つけられなかった。私は、今でも人混みの中に姉の後ろ姿を探しているのよ……」

 彼女が出て行ったあとも、僕は第二図書室の窓辺にもたれてしばらく夕暮れを見下ろしていた。第二図書室の窓は校庭の駐輪場と面しており、部活動を終えた野球部の生徒がグラウンドの土で汚れたユニフォーム姿のまま何人か連れ立って自転車に跨っていくのが見えた。

 僕は視線を室内に戻し、作家の墓標が立ち並ぶ第二図書室の静寂に耳をすませた。そして、今も帰り道で姉の後ろ姿を探しているだろう彼女の寂しげな横顔を思い浮かべた。

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