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Romaのオベリスクに恋してpart3

3.フラミニオ・オベリスク ポポロ広場

ローマに持ち帰えられた第1号



古代エジプトの都ヘリオポリスの太陽神殿の前に立てられたもの。

アウグストゥス悲願のオベリスク!


オクタヴィアヌス(ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥス帝,在位,B.C. 27 ~ A.D. 14)が紀元前31年にエジプトを征服した後、2本のオベリスクをヘリオポリスの太陽神殿から持ち出しました。
この2本がローマに運ばれた最初のものです。
(※もう一本は、モンテチトリオ広場に立っています。)

このオベリスクはローマに運ばれた後、紀元前10年にチルコマッシモの真ん中に立てられましたが…その後倒れたらしいのですが記録がありません。

ローマの都市大改造に熱心だったシクストゥス5世によって1586年掘り起こされ、この大きさのオベリスクを運ぶ為に道も整備され1589年ポポロ広場の真ん中に立てられた。

教皇シクストゥス5世は、4本のオベリスクを建てさせました。
その目的は、「巡礼者が歩くときの指標になるために」との考えがありました。
ポポロ広場の入口にあるポポロ門は、ローマ街道の入り口。
巡礼者あるいは、観光でローマに入ってくるヨーロッパの旅人を、出迎えるオベリスクになった事だと思う。

その当時には、まだ四頭のライオンの泉はなく、1816年~1824年にピンチョの丘が整備されたとき、一緒にポポロ広場の改修工事も行われ、そのとき設置されたもの。
泉についてはまた、別の時に記しますね。

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