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泉の歴史 教皇との関わりpart2

マルティヌス5世からローマの再建を引き継いだ彼らは、ルネッサンス初期において牽引するパトロンになっていく。

ニコラウス5世
ルネッサンス最初の教皇
ヴァチカン図書館設立

シクストゥス4世
シスト橋、システィーナ礼拝堂を建設。ペルジーノ、ボッティチェッリなどをローマに召喚。

ニコラウス5世がヴェルジネ水道の修理を考えて、1453年に終着地にあたるトレヴィの泉を修復。
最初は小さな3つの水盤だった。それを大きな四角形の水盤を置き、水が出るようにした。
しかし、この修復は完全なものではなく、シクストゥス4世も修復を行ったがやはり無理で…

※皆様が思い浮かべるトレヴィの泉は1762年に完全。まだまだ先の話し。

教皇領で大きな勢力となっていたチェーザレ=ボルジアを捕らえて失脚させた。
(惣領冬実さんのチェーザレのファンとしては複雑💦ですが)
その後、教皇に敵対的であったヴェネツィア共和国を討つため1508年にフランス王ルイ12世、スペイン王フェルナンド5世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と「カンブレー同盟」をむすぶなど、政略家ぶりを発揮した。
イタリア戦争の一環で、フランス王ルイ12世が北イタリアで勢力を強めると、一転してスペイン、ヴェネティア、スイスと「神聖同盟」を結成、スイス人傭兵を利用してフランス軍と戦い、その勢力を排除することに成功した。
政略的・好戦的な教皇として知られる一方、
古代ローマの英雄ユリウス=カエサルを理想として自分の名前もそこからとり、古典古代の美術品を収集、多くの美術家を援助してヴァチカン宮殿を豪華に飾り立てたことでも知られる。その結果、ルネサンスの中心はフィレンツェからローマに移り、多くの美術家がローマに移住した。
 1506年からサン=ピエトロ大聖堂の改修を開始し、ブラマンテに設計を担当させた。またミケランジェロにシスティナ礼拝堂(ヴァチカン宮殿内の礼拝所)の天井画の製作を発注した。ユリウス2世がラファエロに描かせたヴァチカン宮殿「謁見の間」の大壁画「アテネの学堂」などルネサンスの象徴的作品となった。
教会の再建、建築。都市の整備には莫大な費用が必要。寄進やイタリア中のユダヤ人からの税金では不十分。十字軍の時にあったシステム
「贖宥状」を乱発するしかない…
今の時代も公共事業には、利権に汚職がつきものだ。教皇だって人の子…
ローマの再建の正義のもと、美と腐食という諸刃の剣で教皇のローマは、ルネッサンス文化の礎を築いていく…

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