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夜のあさがお エピソード3

エピソード3

 ここで、お兄さんの仕事の話をしよう。お兄さんは、場面緘黙だった経験を活かして、風菜たちを預かっている。ここにいる子達は、親元を離れて生活しているということだ(もちろん、一か月に一週間ぐらいは家に帰る)。はじめの親からの別れ方は一人ひとり違う。風菜のように、別れるのが難しいときは、お母さんと一緒に車に乗って、お母さんが出て行って、お兄さんと入れ替わる、こんな形式をとることもある。優希は家族からここの話を聞いてみて、自分で行きたいと言ったから、お兄さんの車ではなく、家族と一緒にここまでやってきた。簡潔に言うと、お兄さんの仕事はそれぞれに、一番いいと思った対応をすることだ。今日は愛翔が起きてこない。お兄さんと愛翔はどんなやりとりをするのだろうか。少し覗いてみよう。

 「あいとくん、どうしたの?今日はなんだか心配なことがある?」

「…」

愛翔は首を縦にも横にも振らない。そんな気分ではないのかな?どちらでもないのかな?他に質問がほしいのかな?お兄さんはいろいろ考える。その中から、一番いいと思う対応をする。あまり質問攻めにするのはよくない。あいとくんにも、気分が乗らないときだってあるはず。そう考えたお兄さんは、こう言った。

「今から十五分、休憩して考えて。自分で自分が分からないこともあるよ。」

「じゃあ、長い針が四のところになったらまた来るから。」

と言って、寝室のドアを閉めた。

 愛翔は、誰もいないことを確認してから伸びをする。ふうー。はあー。体が凝り固まっていた。特に肩を伸ばすと気持ちいい。そして歩き回って、さっきの問題について考える。僕はどうして布団から出られなかったんだろう?どうして?今日が来るのがこわかったからかな?うーん。きっとそうだ。でもどうやってお兄さんに伝えようか。もうすぐ長い針が四のところに来る。さっき座っていた位置に戻って、体勢を整える。これでいつお兄さんが来ても大丈夫だ。

 お兄さんが帰ってきた。悩んでいる様子だ。でも、愛翔がさっきより落ち着いているのを見て、安心している。

「気分はどう?解決した?」

「ずっと、一日中、声が出せないから、みんな、来てすぐは布団から出られないときもあったよ。あいとくんも、そうかもしれない。違うかもしれない。」

愛翔は、一点を見つめている。うなずきたい。でも、もうすっかりタイミングを逃してしまった。

「まあ、ちょっとゆっくりしよっか。」

お兄さんは、鼻歌を歌いだした。なぜか、「あわてんぼうのサンタクロース」だ。今は五月なのに。なぜだか聞きたくて、愛翔はお兄さんを見つめる。

「ああ、この歌ね。僕にもどうしてか分からないけど、浮かんできたんだよ。」

面白くて、愛翔の顔が緩んだ。それを見て、お兄さんも笑う。

「クリスマス前にやってくるサンタクロース、どうして急いでたんだろうね。」

そんなこと、考えてもみなかった。お兄さんはいつも、新しいことに気づかせてくれる。楽しくなってきた。

「僕にも、朝になるのがこわいときってあるよ。」

いきなりお兄さんが言い出した。そうなんだ。というか、また心を読まれている。これで愛翔の心配がなくなった。お兄さんって、やっぱりすごいな。かっこいいし、優しいし、なんでもできる。みんな、大きくなったらお兄さんみたいになりたいと思っている。

 間を置いて、お兄さんが言った。

「さあ、みんなのところに行こう!」

「動くかな?」

愛翔はうなずきたい。

「そうかあ。じゃあもう少し休もうか。休憩は大事だよ。」

お兄さんは、動かないときは無理に行かせたりしない。前まで、というか佳菜子のときまでは、無理に行かせたりしていたけど、それで佳菜子が疲れてしまったので、今はもうやめている。今の愛翔は、うなずきたくてもできなかった。だから、休んだ方がいいと、お兄さんは判断した。

「僕はいない方がいいかな?いや、僕があいとくんと一緒にいたい。」

幸い、愛翔もそうだった。お兄さんともっと話がしたかった。

「さーて、けん玉でもしようかな。あいとくん、けん玉得意なんでしょ。お母さんから聞いたよ。」

やりたい、と愛翔は思った。お兄さんに、かっこいいところを見せたい。すかさずお兄さんがけん玉を渡してきた。愛翔はびっくりして、受け取ってしまう。これはやるしかない。

 すっと、愛翔が立った。器用にけん玉を扱っている。カン、コン、カン、コン。

「おー!やっぱり上手だね。」

愛翔はすごく嬉しかった。お兄さんにかっこいいところを見せられた!けん玉ができた!それより何より、お兄さんのおかげで動くことができた。

「初めてじゃない?こんなに動いたの。やっぱり、あいとくんも頑張ってるなあ。」

愛翔は立ち尽くす。ここからどうすればいい?するとまた、お兄さんが助け船を出してくれた。

「さあ、座って座って。お話しよう。」

「ねえねえ、学校に、好きな子とかいた?」

愛翔は面白くて、また笑ってしまった。かわいい子なら、いたかな。困ってるとき、助けたりしてくれたし。今、あの子はどうしているだろう。

「その顔は、もしかしていたの?あいとくん、恋してるねー。」

そんなとりとめのない話をして、二人はとても楽しい時間を過ごした。

 このあと、愛翔は寝室から出ることができたし、いつもより活動的に見えた。塗り絵もして、河原では魚探しに熱中していた。お兄さんが思うには、心の扉とつぼみが少し、開いたのではないか、ということらしい。当たり前のことだ。みんな、毎日が成長だ。日々、前進している。

 こんな風に、お兄さんはみんなと接する。それは、自分が小学一年生だったときの担任の先生がしてくれたように、自分が助けてもらったときのように、やろうと決めているからだ。お兄さんは幼稚園で話さなくなり、小学校に入ってから少しずつ改善していった。それは小学一年生のときの担任の先生のおかげである。

 お兄さんは、一年生のとき、よくからかわれていた。外遊びには、「あの子が来ても面白くないから」という理由で、誘ってもらえなかった。それで学校でも、泣いたことがあった。そのとき、遠くから見ていた先生が、みんながいなくなってからお兄さんを慰めてくれて、最終的にはみんなに、お兄さんのことを理解してくれるようにはたらきかけた。お兄さんにもみんなと同じように、辛い過去があったのだ。

 そして今、お兄さんは子供たちの一番身近な存在として、楽しい日々を送っている。

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