私はもっと大事にされてもよかったのかもしれない
最近、自分の中にいる小さい自分の声が少し聞こえるようになった。結構前から、喉の辺りに住みついているな、と存在は感じていたけど、声が聞こえたのは最近だ。
過去は過去、今は今、と割り切れたらいい。喋れるんだし、これから何にでもなれる。でも、小さい私がこう言う。
「分かってくれる人は他にいないのに!!あなたまで私を忘れたら、頑張った私はどうなるの?置いて行かないで!!」
当時の気持ちをきれいに忘れられたら、それ以上に楽なことはないと思う。でも、あの顔が上がらなかった日々に意味を見つけられないままでは、怯えていた小さい私がかわいそうすぎる。小さい私も私だから、苦しみを分かっているから、助けたくなる。助けられなくても、隣にいたいと思ってしまう。一緒に落ちていくしかないのか。息を殺して、助けてのサインも出せなかった小さい私が、今の私に助けてほしいなら、何でもしてあげたい。
2か月以上前のことだけど、倫理の先生に「他人には喋れなくてもいいよって思うのに自分にはそう思えない」ことを相談したら、「自己中なだけちゃうん?」と言われた。喋れなくて自分が苦しくなるのは嫌だけど、他人が苦しくなるのは関係ないからだって。目から鱗だった。思えばいつもそうだった。他人のことを考えすぎて、いつの間にか自分のことをいちばんに考えている。そして空回り。自分としか会話してなかったから、そうなるのも無理はないけど。
ボランティアに行ったりして、障害がある子供たちと関わっている。自分の気持ちを適切に表現するのが苦手な子も多い。固まったり、叫んだり、叩いたり、泣いたり。しんどいよねえ。何を感じたのかを理解することはできなくても、その行動をしてしまうとか、するしかないという結論に至ったことは認めたい。そして、ちゃんと理解している人しかいないからなのか、時代が変わったからなのか、私が学校で受けていた対応と違いすぎて、驚くことが多々ある。気づいちゃったけど、私は結構荒い関わりをされていたなと。ボランティアには子供の気持ちを最優先で動く大人しかいなくて、実は毎回複雑な気持ちになる。あれ?私は意外と大事にされてなかったのかも?
目の前の人が、私を大事に思ってくれていると信じていた。大事だからこそ、強く言ったりするんだろうなって。もちろんそういう先生もいていい。そういう人でも、今でも仲良くしてくれていたりするから、関わり方を知らなかったり、不器用で強く言ってしまったりするんだろう。でもやっぱり、私は私の中身を分かってほしかった。保健室は1日に1時間しかいられない決まりだとしても、迎えに来ていきなり引っ張って教室に連れて行かれるのはしんどかった。気持ちが置いてけぼりで、抜け殻になっている気がした。決まりならまだ分かる。思い出作りとかで生徒会が決めたダンスを踊る映像を残そう!みたいな企画があった。中3の3学期とかだったから、授業時間も余っていて、そこで練習もあった。その練習も棒立ちで、一切踊ってないのは先生も見ていたと思うのに、当日「行きたくないけどさすがにうまく回避できるやろ」と思って行ったら、起立で立たない私を、どうにかして連れて行こうと立たせて、ぐいぐい押されて、踊ってない変な人がカメラに写る場所まで運ばれた。「今日これがあるって分かって来たんやろ!」ってさ。意味分かんねー。そうだけど、動きを止めて抵抗してるよ。見学もなしなの?休んだら逃げられたけど、他に授業もあるよ。簡単に休めるもんじゃない。私はいつも動けないわけじゃないよ。何かが引っかかっているときに動けないの。普通の授業とかはちゃんとやってるよ。だいたい、自分が踊れないのに前に出たい?前に出たら踊れると思ったの?当日まで不安でお腹が痛かったのに?押してきたのは支援学級の先生だったな。大して関わってないのに、決めつけてこないでほしかった。おかげで、立派に私は、自分の気持ちが分からない大人になりました。奥にある袋が、当時よりぼろぼろでぐちゃぐちゃです。悲しいね。
まあめんどくさいよね。1人だけ違うところにいられると。それが何回もあると余計に。先生はこっち側の背景を考慮したりしてくれないのに、こっちが先生側の事情を考慮して、滑稽な構図だね。
と、まあこういう感じなので、ボランティアで固まってる子とかに、どうにかして、何らかの方法で気持ちを伝えてもらっている様子を見ると、住みついている小さい私が周りの物を投げて、倒して、壊して、暴れる。外側は大人だから、平静を装うけど、内側ではそれをなだめるのに必死だ。「こんな穏やかな世界があるなんて知らなかった!!羨ましい!!私も子供でいたかった!!」私がはっきりと助けを求めなかったから、見向きもされなかった。でも、私は微弱な意思表示はしていて、それが限界だった。自分のせいにすることで生き延びてきたように思うけど、その行為はある種の逃げで、理不尽に立ち向かって怒る気力や、勇気や、希望や、自信があれば自分のせいにして逃げる必要はなかったかもしれない。自分を過小評価して逃げる癖は結構周りにもよくない。歪んだ考え方も治していかねば。
自分が大事にされていると信じなければ、やっていけなかったんだろうな。毎日のように、体育館や教室の真ん中で動けなくなる夢を見るけど、だいたい、周りの人は怒るか無視か呆れるか。高専のときは、本当に大事にされたから1年で話せたのかもしれない。「こんなに自分の気持ちに正直でいいんですか!?」ってびっくりしたもんな。ありがたい。
私は私が嫌いだけど、どうにかして生きるために、今日も小さい自分の頭を撫でる。よしよし。私はあなたが頑張ったことを忘れずに、抱きかかえて生きていくよ。
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