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No.15 第三の目 I Ψ ♾ 進化のゴールはどこ?

科学者は、宇宙とは何かを理解しようとします。

芸術家は、宇宙と一体になろうとします。

それぞれアプローチは違っても、自分という存在の素性を知りたい、世界とは何かを知りたいという衝動に突き動かされて、人間はここまで成長して来ました。

仮に、科学者の夢見た宇宙の大統一理論が完璧な方程式によって解き明かされたとしても、あるいは芸術家が創作において神との合一を果たしたと涙したとしても、それも意識の成長に見合った視点からの通過点に過ぎず、宇宙はどこまでいっても謎と神秘に包まれていることでしょう。

えー、ってことは、ゴールは無いの? 

いやいや、そこが面白いんですってば。

手塚治虫/超古代ムー文明の末裔の写楽保介クンは、額の絆創膏をはがすと
三つ目族の超能力と天才的頭脳を発揮する。 ─ 引用元:U-NEXT

そもそもこの流動的な多次元宇宙を理解したり表現するためには、私たちの思考を組み立てている、この言語では役不足です。

言葉の限界については、量子力学を扱う物理学者たちでさえ、そのように言っています。

「群盲象を評す」なんて言われるように、物質次元の目だけで多次元の巨象を手探りで触って、それを言葉で表そうと思っても、トンチンカンな答えしか出てこないのは仕方のないことかもしれませんが、それでも人間の探究心は止むことなく、「自分とは何か」「真理とは何か」と、存在の問いを発し続けます。

そこで物理学者たちは、言葉で到底太刀打ち出来そうもない神の領域に、数学という地上最強の武器を携えて挑みます。

私は自慢じゃないけど笑っちゃうくらいの数字音痴で、七桁以上はもう意味不明、方程式などもってのほか、

それなのに、いや、だからこそ?  数学的思考に憧れ、学生時代からハイゼン・ベルグの不確定性原理の本など手にしているだけでカッコ良く思え、理解出来る "フリ" して熱心に読み耽り、神がかりの啓示を受けて方程式が浮かぶくだりでいたく納得、感動したりしたものです。

科学者といえども知の限界を突破する瞬間は、人知を超えた力に身を委ねるのだなぁ、と。

そうやって人類は何だかんだ言いながら、目に見える物質世界と、目に見えないエネルギーの世界の2本立ての梯子を、上手に交互に昇ってきたのかもしれませんね。

一方、宇宙と一体になろうとする芸術家的アプローチでは、言葉が役不足だろうが何だろうが、魂を揺さぶられた詩人や、踊り手、音楽家、美術家たちの情熱は、言葉を超越するものを魔法のように指し示し、あるいは自らの身体を神様の乗り物として喜んで差し出します。

もう随分前のことになりますが、バリ島の伝統芸能を支えてきた偉大なグルたちの「芸術論」をインタヴューして回るという取材に同行したことがあったのですが、「あなたの "踊り" (または "音楽" )にとって最も重要なことは何ですか?」という質問に、多少の言い方は違っても、一人残らず「それは自分を神様に明け渡すことだ」という内容の答えが返ってきたことが印象深く残っています。

たとえどれほど技術を磨こうと、「自分」がそこで踊っているうちは、まだまだだ、とグルたちは仰います。

そして、いつ神が降りて来ても身体がそれに応えられるようになるために鍛錬するのだと。

確かに上手下手は目先には入ってきますが、それとは別に何か説明のできない超越的なものを感じた時に、私たちは思わず惹き込まれ、感動してしまいます。

特に純粋な子供たちが、いとも簡単に神様と一体になれてしまうのには驚きです。 

大人になってからこれをやるのは容易なことではないかもしれませんが、子供だったことのない大人は居ませんから、一途な気持ちを思い出せば、きっとできるはずです。

私たちのガムラン音楽グループのメンバーも、演奏中に時折り贈り物のようにやって来る、「自分」と「自分の見ている世界」の境界があやふやになるような、説明不能な "えも言われぬ一体感" を味わってしまうことで、皆んなどっぷり深みにハマるのです。(笑)

どうも私たちを突き動かすこれらの抑え難い衝動や憧れ、飽くなき探求や情熱は、「何かが足りない」という漠然とした欠乏感からやってくるように思えます。

フーム、やっばりこれは「神様の隠れんぼ」

分からんチンの世界の果てに私たちを放っぽり出した神様の策略なのでしょうか?

人は、不足や制限があると逆に奮起すると、神様はご存じかのようです。

ま、不足も制限も無いゲームなんて、スリルもクリアする喜びも無いし、何の面白味も無くて、すぐに飽きちゃいますもんね。

それにしても、近ごろの超最先端の物理学や天文学などは、今にも神様のしっぽを捕まえそうな勢いの切り込みようで、実に頼もしいかぎりです!

しかし考えてみれば私たちの世界への理解や認識は、ドンデン返しの繰り返しの歴史でした。

回っているのは空だ、いや地面だ、
光の速度が最高だ、いや違う、
粒だ、波だ、いや両方だ、
いや、何もかもが幻影だ、
地球は平らだ、いや丸い、いや、やっぱり平らか?、いやいや丸だろ、いやいやいや・・・と未だ右往左往で、この先もどう転ぶのやら。

量子論ではあまりに小さ過ぎて目に見えない世界を、方程式や思考実験を通して解き明かそうと試みますが、文字通り「見えない」憶測の壁が立ちはだかります。

超弦理論では11次元あれば数学的に辻褄が合う、とか言われても、実際に11次元を見た人はまだいません。

それでも決して降参せずに、どこまでも食い下がる知的探求根性が、めっちゃ面白いんですけどね。

それならば、ここから先、私たちが物質次元の肉体の目の限界を超えてさらに成長するためには、五感の先にある目に見えないものを見る第三の目が開かれれば良いのでしょうか?


ナムは、それについてこう言っています。


「第三の目が開かないということは、あり得ません。
第三の目があればこそ、この肉体の目を開くことが出来たのです。
いつか何か起こるのではなく、もう、既にやっているのです。」


つまりナムが言うには、もともと『ただ一つなるもの』である第三の目がまず開いていて、それじゃ次は『二元の閉じためぐりの世界』を、肉体の二つの目を使って見てみることにしようかな、と決めたというのです。


だから今さら第三の目を開くための訓練や努力が必要なのではなく、今こうして世界を見つめることが既に出来ている両目、この肉体の目を開くと決定したそもそもの「内なる神意識を思い出しなさい」ということなのでしょう。

ということで、地球人で第三の目が開かない人はいなさそうですね。

最近流行りのバイオロボやクローンは別としてですが。(笑) 

つづく


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木倶知のりこ 著書:●絵本『小箱のなかのビッグバン』 *・* ・*●『ナム "RNAM" 時空を超える光と水の旅』

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