サウナで「整い」に行った話

“キメる”という言葉が嫌いだ。

ポーズやファッションの話ではなく、日々をうぞうぞと楽しく暮らすオタク達がゲームにせよ映画にせよ、追いかけているジャンルの最新媒体を享受する際にツイッターで用いる言葉として、“キメる”と表現するのが嫌いだ。
なにも決まってない。お前に決まっていることは何一つ無い。すべてが未確定だ。

何が嫌いって、この言葉の対象にされる作品がだいたい面白くないのだ。キャラ付けのためにわざとらしくフリスクを携帯している中学生に近しいものを感じる。
恥を忍んで言うが、俺も使った覚えがある。あるが、さんざん◯◯の映画キメてくるキメてくるとタイムラインでぶちまいていたやつが楽しそうだったので俺もその映画を観に行ったらそんなに…というか大して…というかクソほども面白くなかったという出来事を経て以来使わないようにしている。


オタクの映画評はなぜあんなに信頼できないのか……?『ピーターラビット』はマクレガー氏がかわいそうなだけで全然「やりあってる感」はなかったし、TLでさんざっぱら
「妖怪ウォッチクラスタはどのキャラが好きにせよ途中のシーンとエンディング絶対見ろ」と騒いでいた『妖怪ウォッチ FOREVER FRIENDS』はただキャラが無造作にたくさん登場するシーンがちょっとあるだけだった。
『ボヘミアンラプソディ』を、「猫がすごい出る」とかのたまってたヤツのツイートを脳の片隅に留めながら観ていたが猫要素は全然目立たなかった。あれはそんなもん抜きでいい映画だった。

なので、『ヴェノム』もどうせヴェノムが主人公とペットみたいに仲良くしてる描写はごくわずかで、『スパイダーバース』の「ペニー・パーカーがとにかくかわいい」という真・オタク・レビューなどは全体のごく一部の描写を拡大してるに過ぎず、(そもそもそういう輩は最初からペニー・パーカーだけを目当てに観に行ったのだと思う)『プロメア』を終始圧倒されるとか血液が沸騰するとかアドレナリンが出るとかはなんか口の回るままに、にわかトリガー節を吐き出しているだけに決まっているし、『ジョーカー』はお前ではない。

観てないけどそうに違いない。 

(プロメアはたしかに面白かったが心身に何かが起きることはなく、やっぱり各所のレビューは大げさなように感じた。オタクは案の定嘘つき)

さて「そんなことはない!」「いきなり差別かよ?」と、俺と同様に主観性に満ちた偏見をぶちまかんと口をとんがらせ、シェアボタンからの拡散ツイートに添付するクソしょうもないリプライ用画像を探してカメラロールを漁り始めた画面の前のオタクくんは少し頭を冷やしてほしいですわ。(DWU)
記事タイトルを忘れてはいないだろうか?
この記事は俺が“サウナで「整い」に行った話”なのだ。文化衝突の場ではない。俺はガンガンぶつかりに行くが、かわせ。

本題に入るが、このように軽率な“キメる”を嫌う俺がまとめアフィサイトを巡回していると、ある記事を見つけた。

ガッキ「サウナだ!!ウワッアチッ!無理!!(扉アケシメー)」サウナおじさんワイ「……!!」


この記事の文中で『ととのう』という表現を目にしたとき、俺の脳のうすら寒い感情を司る部位が刺激された。サウナで?ととのう?汗まみれのおっさんが何を整えると言うのか?何もととのわないでほしい。脈とか。

しかし、俺はこの『ととのう』という概念について興味が出た。ある層の人々が進んで蓮コラを見たがるのと同じだ。
 なんでも、サウナで体をカンカンに熱してから水風呂に浸かり、しばらく体を休めるとパキーンとして感覚が広がっていくような心地よさがあるらしい。いよいよもってフリスクの特徴だ。


……俺も『ととのえる』のか?


オタクの大げさなレビューはそのほとんどが『テンション高い自分面白い』というなりきりに起因する誇張表現か、『自分を超サイヤ人と勘違いしていた頃のベジータ』よろしく「俺は今めっちゃ興奮してるんだ!」と思い込んでいるだけか、あるいは自分の好きな要素以外どうでもいいマニアックな感性で作品を変な受け取りかたをしてしまったかのいずれかだ。

最初に上げたテンアゲなりきり野郎は完全に唾棄憎悪侮蔑の限りを尽くして速やかに排除するか、観測を拒むべきだが、俺は『勘違いしたオタク』の感性は尊重したいと思っている。
なにせ本人は本当にそう感じたのだ。他者からの理解は得られなくとも、その作品を感受したときには間違いなくそう受け取って、その思いに浸ったのだ。それは当人だけが過ごしたひとときだ。嘘をつくつもりなどないのだ。否定はすまい。尊重しよう。絶対に信用はしないが。

ならば、俺もサウナで『ととのう』体験をしてみようじゃないか。三大欲求を満たすことより気持ちいいのか?ダラダラと寝転んでいる小型犬の腹に顔をうずめてちょっかいをだすことより心地よいのか?
感想をアウトプットはできよう。しかし、その感想が世の真理か、はたまた俺の知覚の問題かは読み手が『ととのう』を体験するまではわからない。
ぜひ、疑心暗鬼で読んでほしい。ぜひ、半信半疑でサウナをやってみるといい。
結果がどうあれ俺が無自覚な嘘つきか否か。読んで確証を得るも、体験して検証を試みるもお前次第だ。
これは単なる俺の感想である。

本筋のサウナとオタク云々の話との繋がりが薄いように感じるかもしれないが、前々からイラついていたことをここで吐き出しただけなので特に脈絡は求めないでほしい。
要は魂が燃えたとか◯◯のことしか印象に残らなかったとかなんとかフカして数ヶ所しかないシーンを作品のすべてのように語って普通の作品を偏った作品のようにレビューして他人に勧めるしょーもなオタクは全員爆散死亡し、そうでない人は俺のサウナ体験レビューを読んでいけというだけのことでした。
なんか書いててムカついてきた。「全人類見て。。。」じゃねえよ。
一人で60億回見てろ。


さて、お前は爆散したか?してないのか?ならば読んでいけ。
空調の効いた涼しい部屋から、娯楽に満ちたその端末でテレビと十二分計以外に暇を潰せるものが存在しない、馬鹿馬鹿しく暑い密室で過ごした話を読んでいけ。
全く心地いいはずだが、果たして『整う』ことより気持ちいいのか?お前が判断していいんだ。もしお前が選択権を与えられると迷うタチならば、しなければならないと言ってやろう。するために読んでいけ。




ここまで読んでいるということは、残念なことにお前は爆散を免れたということになる。よかったな。俺はよくない。

俺が『ととのう』場として選んだのは地元のスーパー銭湯。子供の頃から使っている市民御用達の『湯』だ。ガチのサウナ専門施設はお湯に浸かれるお得感が無いのでなんかイヤ。

まず、俺はサウナに入る習慣がそれまで無く、ひたすらお湯に浸かるばかり。もともと堪え性も無いので水風呂が気持ちよく感じるまでサウナに入るなんてしんどい真似は……まぁやろうとはしたのだが途中でリタイアするのを繰り返しており、そもそも体冷やすんならハナっから入らなきゃいいだろというのが持論だった。
サウナ利用者におっさんが多いことを鑑みて、代謝が加齢で悪くなるのでサウナで汗をかきたいのだろうか。と仮説を立てるぐらいはやっていたのだが、どうやら“ととのう”のが目的という見方が強くなった。

下調べしたところ、サウナ→水風呂のセットを複数回こなす必要があるそうだった。はーめんどくさ。
この反復行為は、“ととのう”という境地の存在すら知らなければ穴掘ってそれを埋めるのを繰り返すのとなんら変わらない。いや知覚的刺激の有無という点でだいぶ違うとは思うが……

なんにせよ、まずはサウナを乗り切らねば話にならない。サウナ室の前で、あらゆるサウナを三分か五分ちょいでリタイアしてきた幼年期からの自分をここで焼き殺すイメージを固めた。やったるぞ!

俺はジャグジーを適当に楽しみ、露天風呂の岩壁の凹みに昔から隠している小石を愛でるなどのプロセスを経てサウナに向かった。

サウナ室の前にて。
それとなく炎的な 、太陽のもたらすなんか風の名前がプリントされているサウナの表札を掲げられた重たい木製の扉を開き、間髪入れずにエントリーした。ゆるやかに閉じるドア。束の間得た行き場を失い、瞬く間に足元にまで満ちてゆく熱気。じわじわと蒸発を始める体表面の水滴。
歩みをひと股ぶん進めるごとに、動かした部位から刺すような熱さに襲われる。これは熱を遮断する役割を果たしていた水滴やら汗でできた水蒸気が全身にまとわりついていたのが乱されるのが理由らしい。

一呼吸するたび、肺に熱気が流れ込む。なるほど。もう出たい。
いやまあ、これを我慢するのがサウナというものなのだが。甘んじてこれを受け入れ、全身漏れなく内臓まであっためてやろう。はーめんどくさ。

とりあえず熱を産み出しているであろう機械の真ん前、すなわちサウナの一番奥に座って芯まで火を通すことにした。イヤだなあ。

階段状の椅子に腰かけ、背中を丸めてうなだれる。さて何をすればいいのか。何もすることがない。
ここのサウナにはテレビがついているのだが、このときやっていたのは野球中継だった。あいにく俺は野球に興味がない。
贔屓の球団こそないが、巨人が嫌いということ以外、プロ野球にはなんの思い入れもなかった。
たしか阪神とどこかの試合を放映していたのだが、別に巨人が嫌いなんであって阪神は好きというわけでもないので特に感慨もなくバッターボックスでプリプリと尻を振るナニガシ選手を見限り、テレビの上の12分計に視線を移した。

ここに来て敵がもう一人増えた。そう、暑さ…もとい熱さに加えて、退屈。 やることなんもねえ。

マジで何もすることがなく、死んだように項垂れながら生存環境を大きく逸脱した温度の空間で過ごすのはかなりの苦行である。これだ。俺はこれがイヤでサウナが苦手だったのだ。
ましてや俺は「ととのう」未経験者。この先の快楽への保障もなく温熱に身を委ねるのは相当な忍耐を要する。要した。忍耐した。
たぶん10分かそこらは耐えたと思うのだが……ハッキリしない。12分計は見てるとキリがないのでひたすらうつむいていたので正確な滞在時間はわからないが、なんにせよ「もう無理」と感じてから一分数え終わるまでじっとしていたのでちょうどいい時間だったのだろう。

俺はノソノソと立ち上がって前のめりで歩きながら水風呂へ向かった。

サウナのあと、全身がポンポンにゆだっていると水風呂に飛び込みたくなるだろうがどうやらやってはいけないらしい。一回汗を流してから入ってくれ。とのこと。水風呂の壁にそんな注意書きが添えてあった。汗まみれなので当然である。なお、奈良県の民度はそこそこ低いため、おっさん達は躊躇いなく汗まみれの体で水風呂に入って頭まで浸かっている。ああ、どうか彼らがヒートショックガチャで大当たりを引きますように。

俺はとてもマナーが良いので、きちんと汗を流すべく浴槽のふちに伏せられているオケで10いくつか℃の水をすくいあげ、波打つそれをじっと眺め、思案する。


“冷たいのヤだなあ……”

数十秒前に「暑いのもうイヤだ!」と音をあげた男の感想とは思えないが、サウナを出れば浴場内とはいえそこそこ涼しくはあるため「冷たい何かに浸りてー欲」がだいぶ減衰してしまうのだ。

……俺は特別な体感をしにきたのであって熱いとか冷たいとかは別の問題だ!
割り切るようにそう言い聞かせて冷水を湛えたオケの中身を思い切り胴に引っかけた。


「ッッッスゥ~!」

歯の隙間から妙な吐息が漏れた。
しゃっこいズーミーが皮膚を滑り落ちていく。火照った俺の体の熱を冷水が奪って……いかない。わりと我慢できる冷たさだった。
アレッと思ったが考えている暇はない。サウナの外でなあなあに体が冷めてしまっては意味がない。水風呂で一気に冷やすのが目的なのだ。
ややビビりながらもザブザブと水風呂の真ん中に向かって歩みを進める。冷たい。水面の境目がムギュッとふくらはぎを掴んでくるような緊縮感がある。ふくらはぎから膝へ、膝から太ももへ、上へ上へ…… 

腕に巻いた輪ゴムを転がしたときの感覚を全身で体感していると表せば適切だろうか……
水の輪ゴムがちょうど首を締めた頃、俺は生まれて初めて水風呂に肩まで浸かったのだった。
 
このまま2、3分ほど浸かってから外で休憩すれば“整う”らしいが体内時計が生まれつきカスなため、“なんかいい感じのタイミング”であがることにした。サウナ水風呂初体験なのにいい感じのタイミングをどうやって測るのか?気が済むまで浸かるのである。


気が済むまで。そう、気が済むまで……






あっ?


俺の体の中で、きわめて緩やかに、何かが切り替わった。すると、耳が良くなった。
遠くの音が近くで聞こえる。手桶が床に置かれた音。誰かが浴場を出た際に引き戸の滑る音。ジェットバスの泡が水面でほどける音。
雑音が意味を伴っている。音と音が絡まることなく、並行して処理される。

最初に感じていた痛々しいほどの冷感はいつの間にやらそれほどの厳しさを感じさせなくなっていた。全身を薄い膜が覆い、それによって外部の冷気が遮られているようだった。
単純に、俺の体から放出されたサウナの熱が水風呂に出ていくことで膜のような役割を果たしているだけだろうが、『芯まで冷える』という表現の影響によって、人体が冷えるときは“冷たい”の矢印が体の中心に向かっているイメージを持っていた。
そのため、実際は俺の体が水風呂をじわじわと温めているだけなのだということを、このときはじめて実感した。

体の制動がうまくいかない。水風呂が小さく波打つだけで釣られて自分も揺れてしまう。体幹が水そのものに滲み出したようだった。呼気が喉元で冷感をもたらしてくる。フリスクを5,6粒かっ食らった後の喉のようだった。
人肌を大きく下回る温度の冷水。長時間使って体に良かろうはずもないが、不思議と苦にならなかった。比喩でなく、いつまでも浸かり続けられる気がした。


…………。


いやもう、本当にいつまでも浸かっていられそうだったので、さすがにヤバいと判断した。
浴場内の情報を隈無く探知して分析処理するだけの生き物になりかけていた俺はハッと我に返り、急いで水風呂を出た。
サウナで蓄えた熱の膜も、いつの間にやら消えていたことに水風呂を出る際の身じろぎでようやく気がついた。とっくに体内に貯蔵したサウナ熱は使い果たしていたのだ。まあ死にはしないだろうが………。

手ぬぐいで体を拭き、露天風呂の入り口(外への出口とも呼べる)側にあるプラスチック製のリクライニングチェアに腰かけた。
たしか、しばらく休んでまたサウナに行くのだったか。五分程度と聞いていたが体内時計が以下省略のため気が済むまで休むことにする。
聴力はまだ冴えたままだ。入り口の掛け湯を流す音も、洗面所でシャワーを出す音も、自分の心臓がドクドク鳴る音も聴こえる。心臓がいつもよりうるさいのか、俺の耳がいつもより良くなっているのかはわからない。

それにしても、風呂場とはこんなにも騒がしかったのか。こんなにも騒がしいのに煩わしくなく、豊かにさえ感じるのか。水という資源をザブザブと使って、ただ“暖かい”を感じるだけの場所。そう捉えれば銭湯とは紛れもなく豊かで贅沢な場所かもしれない。

気がつくと、視界には浴室の天井しかなかった。浴場内の景色が消えたのだ。
チラ、と視線を下ろすとまた浴場が現れた。いつの間にか視線が上を向いていたらしい。顔の位置を変えたつもりはなかったのだが。
目の焦点を浴室中央にあるジャグジーバスの噴水に合わせ、また湯水のにぎわいに耳を傾けた。

しばらくすると、今度はゆっくりと天井が視界に降りてきた。ここで先ほどの浴場消失事件の謎が解けた。何のことはない。無意識のうちに自分の目の焦点が顔の位置はそのままに上へ上へと向いていただけだったのだ。耳から入る情報に意識が行きすぎて視界の変動にさえ気付かないとは、これがサウナトリップの魔性か。

これ白目剥きそうになってんじゃねえの?

先ほどの水風呂で我に返ったと思っていたが、まだ自分はサウナの幻夢郷から逃れていなかったらしい。
俺は名残惜しくも椅子から立ち上がり、手近な湯船のお湯を手近な風呂桶で掬い上げて体に浴びた。めちゃくちゃあったかい。どうやら俺は水風呂を出てから、まったく体が暖まっていなかったらしい。浴場内の湯気で暖まるだろうという目算はまったくの的外れであった。おそらくは水風呂に浸かりすぎたのが原因だろう。

第二セットもあるのでそのまま湯船に浸かりたいのをこらえて先ほどの椅子に目を向けると、俺が椅子から立つのを虎視眈々と待っていたとおぼしきおっさんが腰かけながら虚空を見つめていた。あのおっさんも白目を剝きそうになりながら天井を見つめているのだろうか。

俺は子供の頃からこの銭湯のこの位置にあるこの椅子を見てきたが、このためにあったのかと得心した。
たまに水炊きした鶏モモ肉みたいな見てくれのおっさんが天を仰いだり項垂れたりしながら腰かけていたが、そういうことだったのか。

俺はぺちゃぺちゃとサウナに歩を進め、前にある冷水機から水をガバガバ補給し、再びサウナ室に入場した。第二セットの開幕である。
今度の水風呂は短めにしよう。


第二セット、第三セットと一通り終え、いい加減入浴をしまいにすべく最後に露天風呂に浸かっていたのだが、結局『ととのう』は経験できなかった。
第二セットからのサウナはかなり長く入っていられた(体が冷えたことと、水風呂が気持ちいいことを覚えたためか)とか、そういう違いはあったのだが、あれを繰り返すことで突入できる「ととのう」というゾーンについてはどうも芯を食えず、最初の一セット目で感じたスッキリ感や覚醒感を繰り返し味わうだけでも十分なのでは。というのが率直な感想だ。

ととのったらパキーンとして感覚が広がっていくとのことだが、感覚の広がりはともかく「パキーン」のほうはイマイチ覚えがない。そもそもパキーンってなんだ。何が割れてるんだ。人体からそんな音したら一大事だろうが。

クソ、やっぱりオタクは嘘つきじゃないか。一度感想を大げさにつぶやいたらそこそこバズった経験が忘れられずに話を拡張してしまう哀れな化け物だ。
『バズる感想を発信すること』をアイデンティティにしてしまい、キン肉マンもネタバレするし治安の悪い街をすべてゴッサムシティに置き換え、そんな技法で培ったなんの役にも立たないスキルとはまったく無縁のところで生涯の伴侶を見つけ、子宝にも恵まれ、幾十年が経ったある日。介護ヘルパーさんが掃除機をかける音を遠くに聞き、ゲーミング安楽椅子にもたれながら秋口の日差しに照らされ、「俺の人生、十分すぎるんだよな」とつぶやいて事切れるのだ。

俺は露天風呂から上がり、また小石を愛で、最後にシャワーを浴びて天然温泉の有効成分を洗い流してロッカールームに出た。また俺はインターネットに踊らされたのか。トクサネシティの白い岩の前でダート自転車でジャンプしていたり、ガラケー時代にモバGダウンローダーだのなんだのに騙されていた頃から何も成長していない。
自販機でマッチを買ってレストランでそれとなくガッツリした和の定食でも食べて帰ろう………


飯がうまい。

別に同窓会で自分よりはるかに落ちぶれた同級生を目にしたわけではない。そもそも同窓会に呼ばれたことなどない。
風呂をあがった後、注文したばくだんを一口食うや否やうますぎてびっくりした。めちゃくちゃ飯がうまい。うますぎて天丼も頼んだ、天丼もうまかった。
天丼を食べている途中、正直腹具合がしんどくはあったのだがそれを補うほど飯がうまかった。ここのスーパー銭湯の飯はまあうまいが、正直値段の割には。というぐらいだった。
それがもう、こんなにうまい。いかなる魔法か。いかなる不思議か。

おそらくは、サウナの魔法。サウナの不思議だ。

ととのうとかととのわないとかはよう知らんが、サウナは『飯をうまくする』という効能があるらしい。なにがととのってそうなるのかは知らん。たぶん「ととのう」とは無関係だと思う。

何がどううまいと聞かれると、正直困る。味を鋭敏に感じるとかでなく……なんとなく腹が気持ちよく空く感じがするのだ。
空腹時に摂る食事の最初の1口は激烈にうまいが、2口、3口と食べ進めるごとにその激烈は減衰するだろう。
その減衰下限がかなり抑えられる感じだ。さすがに毎回最初の1口ぐらいうまい!というほどではないが、それでもこの体験は凄烈だった。

帰宅後、俺は『胃袋があったまったり冷やされたりして広がるのかな』などと推察したのち、
(まあ、ツイッターの感想発信オタクの構文はクソキモいけど本人たちが楽しむ分なら別に俺がとやかく言うことでもないかな。構文は本当にクソキモいけど
と、寛容な気持ちになりながら寝床に入った。本人がそう思ってるってだけならいいじゃないか。本当に構文そのものはキショすぎるけど、人の幸せのあり方に口を出すなど、ナンセンスだ。
俺は寝る前の習慣であるYouTubeを開いて、ボンヤリしながら眠気の到来を待った。



泥のように眠る。とはまさにこのことだろう。俺はスマホを開きながらいつの間にか寝ていた。
というか、ほとんど失神の域だ。眠くなる意識もなく寝ていた。そのくせ信じられないほど深い眠りに就いていた自覚がある。目玉がユルユルで、すっきりとはしないが、飽きるほど寝たあとの、睡眠を貪り尽くしたようなあの感覚。

ふと、背筋が痛むことに気付いたので胸をそびやかすと、メリメリいう感じがした。筋肉痛である。たぶんこれはサウナであったまって弛緩した筋肉を水風呂で冷やして収縮させるのを繰り返したためだろう。それにしても心地よい目覚め。起きながらにして睡眠の心地よさを体感しているようないいとこどりの起床。筋肉痛など目ではない。

歯を磨きながら、鏡に映る弛緩しきった腑抜け同然な自分の顔を見ながら思った。

"サウナ、いいな……"


俺はこのあとも、今日に至るまで『パキーンとして感覚が広がっていくような心地よさ』を体感しようと、公衆浴場に行くたんびにサウナと水風呂のセットを試すのを3年ぐらいやっているが未だに体感できていない。いないが、別に良い気がする。
俺が気付いてないだけで、音がよく聞こえるあの状態を「ととのう」と呼ぶのかもしれないが、正直あれだけを目当てにはしていない。

食う飯が美味くなって、眠りが深くなる。
「ととのう」がなんぼのもんかは知らんが、これに勝る効果など無かろう。

以上、単なる俺の感想である。

(文責:とはいえ「ととのう」感覚への憧れを捨てられたかと問われると微妙で、周囲の音がクリアに聞こえる感覚が気持ちよくないかとも聞かれるとやっぱり微妙な岡田レイ)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?