「短歌を詠んだら歌集を編もう。」第二期 全歌集一首評
SPBS THE SCHOOLが主催する歌集編集ワークショップ「短歌を詠んだら歌集を編もう。」の第二期生として、聴講コースに参加していました。
制作コースの10人が作った10冊の歌集は、7月2日(火)からSPBS TOYOSUの店舗、SPBSオンラインストア(下記リンク)で販売されます。
また、7月2日(火)〜7月16日(火)にミニ歌集刊行記念フェアがSPBS TOYOSUで開催されます。会場では、聴講コースのメンバーが作成したフリーペーパーも頒布される予定ですので、ぜひ入手して読んでください。
さらに7月14日(日)には関連イベントが開催され、ワークショップでナビゲーターを担当していただいた筒井菜央さん、講師として参加いただいた穂村弘さん、村井光男さんに加え、川村有史さん、堀静香さんがゲストとして参加していただきます!なんて豪華!
今回は全歌集の一首評を書きました。どの歌集も面白いのでぜひ気になった歌集を買って読んでみてください。
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黒井いづみ『わたしは緑』
黒井さんの歌の中で象徴的に描かれる「花柄」というモチーフ。植物という生の連続性のピークに思えてしまう「花」という瞬間はとても美しいものであるけれど、花になるまでの時間の連続性の重さやいずれ枯れてしまうという没落性を感じてしまう。それに対し、「花柄」は生の美しさや綺麗な瞬間を切り取って集めたもので、時間性を感じさせない永遠なものとして象徴される。それは、時間や生というものの瞬間性やゲーム性、そのシステムのやるせなさに対して、永遠なものがあるという強い抵抗を感じられる。
そうした永遠性を持った花柄とショートカットという軽々しさを持って駆けていき、「今はない手をいつか打とうよ」と読者に語りかけてくれる。ここでいう「手」は手段のことであろう。「打つ」というイメージから、俵万智の有名な「優等生と呼ばれて長き年月をかっとばしたき一球がくる」が浮かんできたが、俵万智の一球は作中主体にしか来ない上、その一球をかっとばせなければまだ優等生に留まってしまういわば賭けのようなものとして機能している。それに対し、掲出歌は「いつか打とうよ」と読者に呼びかける。打つのはいつかで良いのである。僕はこれを希望だと思う。
田村ひよ路『毎日がサンバ』
投薬という状態はなにか肉体や精神に異常が起きていないと起こり得ないもので、ポジティブなイメージはなかなか想起しづらい。しかし、患者にとってそれは苦しみが溶けて無くなる魔法のようなものであり、その結果苦しみを感じることのない果てしない広大な夜が生まれることになる。薬を渡しているのはおそらく医者であろうが、「与えてくれる」ということでどこか”神”に近いものとして医者が描かれているということも、医者と患者という関係性について考えさせられる。
投薬という状況を重く苦しいものとして描かずに、どこか崇高なものとして描き切ることに田村さんの気概を感じられる。それでも薬が与えられることで夜が生まれるのであれば、薬が与えられなくなると夜は消えてしまう。刹那的な夜のイメージをもってして生の一回性が鮮やかに照らされる。この歌は強い。
にしゆきえ『COLD MOON』
定型にバチッとはめられた文語の歌はやっぱり口語短歌には描ききれない激情が表現できるように思う。三句目四句目の緩やかな句跨りからの韻律も綺麗に決まっている。
「ささやか」であるとされた「我がエゴイズム」は天に昇り「星屑」になる。「流星」などの目立つ存在ではなく、「星屑」であることがささやかさとリンクしている。そうした星屑は「凍土に帰還する」。「凍土から帰還する」のではなく帰還する先は凍土なのである。それは行為の主体が星屑であるからであろうが、どこかそれだけではない異国へのノスタルジアを感じる。同時に、「凍土」や「帰還」という言葉のイメージからシベリアの風景が浮かんできてしまう。その歴史について細かく触れることは割愛するが、掲出歌において還る場所はそうしたイメージをもつ凍土なのである。それぞれの言葉が結びつき、銀河のように広く輝く空間を作り出す。生活に視点が向けられがちな現代短歌からは遠く離れた、短歌の凄みを改めて感じさせられる一首。
奈々生ん『今日はパスタを箸でいく』
表題歌でもあるこの一首。歌から読み解くに、作中主体は日常的にはフォークでパスタを食べているのであろう。それはほとんど無意識下で行われる行動で、何気なく日常を過ごしているとそうした無意識下の行動で生活は埋め尽くされてしまう。ただ作中主体はそうした日常性を意識的に壊そうとする。
水曜日という平日の真ん中に、意識的にパスタを「箸で食べる」という選択を掴み取る。日常をメタ化して日常性からの脱却を試みることは、描き方に違いはあれど現代短歌において頻出するテーマのように思う。しかし掲出歌の中で宣言された脱却のあとに持ち出されるのは、無意識下で行われた「フォークで食べる」という行動とその結果としてのフォークの温度である。ここで僕たちは、作中主体は無意識下でパスタをフォークで食べようとしていた後に、意識的に箸で食べるという選択を選んだ、ということに気がつく。日常性からの脱却のみを短歌で詠うことは可能であるのに、奈々生んさんはそうした相反する自意識を隠さずにさらけ出す。その距離感のバランスの描写がすごく新鮮だなと思う。
沼谷香澄『宝石をかなとこにのせハンマーで砕く事象のなかの月光』
歌集の一首目に置かれたこの歌。一首目にこれを置くのはすごくかっこいい。「ビート」という歌いだしからどこかヒップホップ的なイメージが浮かぶとともに(沼谷さんは定型というビートを自由に乗りこなす)、「叩く」や「打つ」、ないしは「打ち負かす」といったビートの言葉の意味が想起されてダイナミックさを感じる。
次に「まずハートビート」と声高に宣言される。「ハートビート」とはそのまま読むに心臓の鼓動であろう。確かにそれは何よりも優先されるもので、生命体として絶対条件なものである。ただそれをアイロニカルに描くのではなく、冒頭の叫びをそのまま引き継ぐことで、直接的に生命の力強さを描くことに成功している。また、英語で「in a heartbeat」ということが「すぐに」「直ちに」という意味を持つように、力強さのみでなく走り去るようなスピード感も同時に浮かび上がる。
以上の激的な展開をもって詠われた掲出歌は「きみのプレイリストの秩序なきおだやかさ」というミニマルなモチーフに凝縮される。「プレイリストの秩序なきおだやかさ」というイメージはよく分かる。例えば特定のジャンルに集中したプレイリストより、いろいろなジャンルが混在したプレイリストのほうがなぜかおだやかに感じてしまう。何事も一点に集中させてしまうと自ずと強度を増してしまう。この一首の凄いところは、「ビート」の言葉の強度を最大限まで高めたあとに、最後にそれを解放させてしまう覚悟にある。
野田鮎子『ゆるやかな鍵』
季節というサイクルのもと僕たちは生活をしているが、季節は直線的に循環しているのでなく、螺旋状の構造を取っていて僕たちはそれに取り込まれているように思えてしまう。それは単に同じ春は二度と来ないというだけでなく、これまでの春の経験をもって新しい春と対峙するという、季節にはどこか試練じみた印象が僕にはある。
教員である野田さんにとって「春」は特別なものなのであろう。しかし掲出歌の中では、季節の試練性は年々希薄になっており、春の重さが軽くなってしまっているように読み取れる。そうした春の軽さが詠まれるとき、相対的に過去の春が、焦がれるだけの春が浮かび上がってくる。僕たちは過去のイメージを持って現在と対峙することができるが、同様にアクチュアルな現在から彩度のある過去のイメージを呼び寄せることができる。
「焦がれる」という状態から、その願いは叶わなかったものであると想定できる。また、「焦がれるだけの春」という言い方から「焦がれるだけでない春」もあったのだろう。もしかしたら現在の春がそうであるのかもしれない。それでも今でも思い出してしまうのは、焦がれていた試練のようなあのときの「春」なのである。
膝乃サラ『天使突抜』
私たちは自分だけの世界を生きることは出来ずに、他人との共生を否応なしに強いられる。その中では関係性というものが求められ、ときに言葉はそうした関係性を表すために消費される。あなたは友達、あなたは友達でない、あなたは彼女、あなたはメス、あなたはオス。ソシュール言語学的ではあるが、名称を知った僕たちははじめてその対象を認識することができる。名称をもって関係性を明確にすることによって、私たちは安心した関係性を認識することができる。それでも言葉はいつだって不完全だ。
名称されることで関係性が確立されるのなら、名称されない関係性は関係じゃないのだろうか? 確立することができない関係は避けられるべきことなのであろうか? 言葉は私たちを生きやすくしてくれるが、私たちから言語外のものを奪っていく。短歌というフィールドで言葉と向き合う膝乃さんの戦いに僕は勇気を貰う。
宮下いお『501号室』
「隙のない文章」というものは確かにある。感情や主観を捨てて、論理的に客観的に論を展開することで普遍性や再現性が担保される。例えばビジネス文書や学術論文なんかは性質上そうしたものが志向されるのだろう。だけどそうした文章は無味乾燥に感じられ、奥にいる人の存在が感じられない。いや、文章の奥にいるのは本当に人なのであろうか。
生成AIの技術が進み、論理的な「隙のない文章」を書くことが人間だけの特権ではなくなってきている現代、そうした「隙のなさ」こそがAIという超越的なものに隙を与えてしまっているのではないか。ビッグデータを携えた超越的なものが論理的な文章をかけるようになった今、人間がそれに立ち向かうためには何が必要なのであろうか。僕は、「隙のなさ」に徹底的に向き合い、それが超越的なものに並んだ瞬間にその構図ごと刺し貫くことが、真の「隙のなさ」であると考える。掲出歌では文章の「脚注の語尾にかすかな怒り」を表出させることで、超越的なものを超克した「隙のなさ」が生み出される。感情的に文章を書くことは誰にだってできる。しかし感情をもってして、最後の最後まで論理性に向き合い続け、クライマックスでそれごと打ち破る。それは途方もない困難な作業であるが、そうでもしないと僕たちは超越的なものを越えられないのだ。
森崎とわ『さよなら Zepp Tokyo』
歌集を読むに「柵」はライブハウスの「柵」と読むのが一般的だと思う。それでも詩の言葉は何であっても比喩として読むことができる。「柵」は僕たちの眼前に立ちはだかっている障壁のすべてである。僕はそれを越えたいと思うが、越える勇気がない、越える覚悟がない、越えたとして越えた先の世界が今より良いものであるかは分からない。そんな僕の逡巡を、「共に手をとって」進路を切り拓いていってくれる。そのとき「走らないで」という声が掛けられていることに気がつく。それでも掲出歌の中の二人は走ることをやめない。二人にとって、世界は二人だけのものなのである。これを青春と呼ばずして何になろうか。ただこうした青春の暴力性については容易に許してしまって良いものではないと思う。それでも、やっぱりこうして手を引いてくれる人がいて欲しかったと思うことはある。あまりにもむき出しで、いつか突然消えてしまうような儚さがあるが、森崎さんの短歌に救われる人は間違いなく存在する。
岡ノ山エチカ『宇宙に暮らす』
「再婚はしてない」というのはおそらく作中主体と誰かの会話で発された言葉であろう。会話はこの場所で展開されているのか。いや、この場には話し相手はおらず、いつかの会話をこの場面で想起しているだけとも読むことはできる。持ち出されるトピックは「再婚」という個人に踏み込んだ話題であり、軽くはない話題であるが、台詞のみが挿入されていることもあり、掲出歌の中で言葉は単なる響きのように鳴る。
台詞の挿入から途切れることなく言葉が展開される。「ふーん」は作中主体が台詞を受けて感じたものであろう。視点は切り替わり「みどりまめ」に移る。「みどりまめ」は「チーズ」に「からめ」られるが、「皿に戻」される。ここまでがノンストップに描かれる。冒頭の台詞が響いている中で心象と行動が絡み合いながら展開されており、どこか焦燥感のようなものが感じられる。また、「ふーん」と興味があるのかないのか分からない言葉は、チーズが絡みついたみどりまめを口に運ぶことなく皿に戻すという行為によって、作中主体が平静を保とうとしていることを暗示させられる。状況としては平穏とは言えないが、それでもチーズを纏ったみどりまめの鮮やかさが不思議とコミカルに思えてしまう。重くなりそうなトピックをさらっと描き切るところに岡ノ山さんの技量を感じる。
了
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