20240414(日記)
気がついたらシャツ1枚で街を出歩くことができる気候になっていた。今日に至ってはシャツですら暑く、その存在がうっとおしく感じられた。気がついたらと文頭に書いたが、本当に気がついたらそうなっていた。たまたま暖かくなったから。たまたま日が照っていたから。たまたま気分が良かったから。それでも僕はいずれ暖かくなることを経験として知っていた。明確なタイミングはいつも分からないが、気がついたらそうなることを僕はちゃんと知っていた。
季節のことを懲りもせずにまた綴っている。今年の冬も相変わらず、冷たい冬だった。冬の冷たさは、僕を孤独にする。いつも通り、今回の冬も経験として僕の背後に引きずり込まれていった。季節の変化は視覚的に理解することができる。それでもいつもその移り変わりは突然だ。最近までたしかにここにいたはずの冷たい時間は、回帰することでしか認識ができない、遠い存在になっている。
現在という瞬間はいつも突然に現れて、突然去っていく。街ですれ違う救急車のように、その存在を主張しながら迫ってきて僕を通過した後に去っていくことができるのなら、僕は安心して時間というものに対峙することができるだろう。しかし僕の救急車は突然、僕のすぐそばに現れる。突如爆音として響き渡るそのサイレンの音に僕は狼狽する。ノイズだ。ノイズが僕を襲っている。そう理解が出来た頃には、そのノイズは僕の後方に向かっていき、その時にやっと、僕のそばに突然現れたのは救急車だったと気がつく。全く同じように、過ぎ去った後だからこそ、僕は冬の輪郭に初めて気がつくことができる。気がついたらそうなることは経験として知っていたはずなのに、僕はいつだってその瞬間を捉え損ねてしまう。
僕は相変わらず、視ることが出来ない、しかし遠くではなく近くの、闇に向かって文章を書き続けている。この文章は、特定の誰かは登場せず、また特定の誰かを思って、書かれたものではない。それは、僕という存在ももれなくその特定の誰かの内のひとりであり、誰のためでもないただ文字の羅列として存在している文章だろうと、僕は推測することができる。推測は現在、ないしは過去の方向に向けられる。今この瞬間に起きていること。起きてしまったこと。そのことに対して、僕は思考を巡らせ、これはこうした意味なのではないか。こうした意味だったのではないか。と考えることができる。未来に向けられた感情は、予感や想像で、それはすべて希望的観測に基づいている。いや、推測だってできるんじゃない? どうやって? だって春の後は夏が来るってわかってるじゃん? なんでわかってるの? だって今までずっとそうだったじゃん。逆にそうじゃないことなんてあった? いやなかったけど。それでもこの世界に決まってることなんかないじゃん。春の後に冬が来ることだってあるかもしれないじゃん。 ないでしょそんなこと。仮にもし春の後に冬が来たとしても、そのときには夏だって思うんじゃない。だって私たちは思い込んでいるから。春の後には夏が来るって。過ぎ去ってから初めて、あれ? あれはもしかして冬だったのかも。と気づくのかもね。全ては過ぎ去ってからでしか分からないの。 きみの言っていることはよく分かるし、その通りだとも思うよ。でも僕は今この瞬間のノイズを聞き分けて、未来の姿を推測するよ。季節は、気がついたら過ぎ去っていくものではなくて、意識的にそこに向かっていくべきものであって、辿り着いた先が求めていたものと違うとしても、何回も何回も前に進ませる。そうするといつの間にか推測が確信に変わっていく。僕は確かな未来に向かうよ。
気がついたら冬が終わって、気がついたら夏がやってくる。僕はそのことを経験として知っている。だからこそ、今年の夏こそは、お気に入りのTシャツはいつでも着れるように準備しておく。
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