つまり、この日焦燥はサナダムシ
踵が痛い。千波湖の湖畔でピキッと痙攣した右足の踵。正確にはその外側。かれこれ1週間が過ぎたが、その痛みは一向に和らぐ気配はない。まるで両側、つまり足の爪先と踵の先の両方から同じ力で引っ張られるような痛み。
日々を義務に追われる事がなくなってから早一月。溢れ返らんばかりの自由時間の束、その質量を抱え、安息とも焦燥ともつかない複雑な心境を以て日々を過ごしている。
1週間。当初の予想と反して「囚われずの身」にしては濃密な時間を過ごしている。僕は今、責務にも自由にも囚われず毎日を送ることを許されているのだ。これは、僕が自由でありながらその責任を全うしない不調法者であるということに外ならないのだが、
ただ、そういった不安定な立場にあって初めて真の自由は成立する。絶妙なバランスでもって、グラグラと揺れながら。
自由を意識する者に自由は訪れない。自由を欲すること、自由を求めること、これらは不自由なる人のみが行う所業であり、それをする事は己が不自由を認め、そう定義する事に等しい。だから自由は意識してはならない。
ただ為すがままに生きて、ふと隅に目をやると自由は転がっている。屈んで取り上げようとすると、掌から零れ落ち霧のように消えてゆく。砂漠の蜃気楼のように、自由は求める者には振り向かない。そういった類のものなのだ。
さて、濃密な時間を過ごしていると述べたが、何も慌ただしさに追われるようなスケジュールをこなしているわけではない。仲の良い友人、権威や見栄といったものに縛られる事のない関係性の友達に、毎日少し話したくなる等な些細な事に見舞われる。予定の詰まり具合はその程度だ。
ただしかし、これは絶対的な濃密だ。その時々の生活を比較するのではなく、ただ今が濃密であるという事を意味している。今までは人生が人生じゃないもので満たされていてた。何もすることがなくなって初めて、人生に「濃さ」という概念が生まれた。つまり、毎日の出来事が果実のように絞られて一滴一滴のエッセンスが僕という湿潤な器に滴り落ちている。そんな空想。
焦燥。これは僕のこの一年における大きなテーマであった事に疑いの余地はない。この焦燥に僕はサナダムシに寄生されたかのように操られ、ある意味では(考え方によっては)時間を無駄にし、心を揺らした。この心の揺れや乱れが不必要か必要かは後の自分が決める事なので今から話すべきことではない。
僕が自身の焦燥感にどれだけ悩まされたかは散々、自分でも嫌気がさすほど述べてきた事であるので省略する。ただこの焦燥感が殆ど実体の様なものを携えて僕の心に表出したのは果たしていつ頃からだっただろうか。
勿論、僕には物心着いた頃から一抹の焦燥が付き纏っている。僕はそうやって形の見えないものに追われながら生きていた。ただ、心中の焦燥が極大に達し、明確な言葉となって己の精神を蝕み出したのはいつだったか、という事だ。
これに関しては明確な答えが出せる。去年の12月だ。
当時僕はアニメ「ぼっち・ざ・ろっく」の影響を受けて、オリジナルバンドを組みたいと思っていた。今までのバンド活動はコピーバンドがほぼ全てであり、自分達で楽曲を制作し演奏する事はなかった。あったとしても僕は大概その機会を無気力で棒に振ってきた。その反面どこかで自分達で音楽の世界を創作し成長させていく活動をしていきたいと考えていた。
どんなに拙くてもオリジナルはオリジナルであり唯一無二性は揺らがない。自分達の世界がどんな形であれ独創性を持って具体化する。そんな経験に憧れを持っていたのだろう。
そんなこんなで、同じような思いを持った仲間とオリジナルバンドを結成する事になる。ベースは僕。ドラムは実力はプロに迫る新進気鋭の一年生。ギターボーカルは当時僕と同じ大学三年生で作詞作曲が出来る。メンバーの実力は十分、気性もお互い馴染む。期待に胸を膨らませ新たな活動が発進する。
しかし、その期待とは裏腹にそのバンドは一回のライブも一曲の制作も叶わず、見事に頓挫する事となる。
僕が初めてギターボーカルの彼と出会った時、
「こいつはこちら側の人間だ。」
と素直に感じたことを覚えている。
簡単に言えば病んでいる人間。より正確に言うならば自分自身に支配されている人間。
つまり、なんらかの生きづらさを抱えて己の思考や感情に苦しめられげっそりやつれてしまった状態の人間だった。
彼はそういった闇に堕ちた人間に見えたし、当時の僕も他人が見たらそう見えた事だろう。自身の闇が表層まで漏れ出ている人には中々お目に掛かれるものではない。同じ穴の狢として僕は彼に強い親近感を抱いた。それと同時に、これからの活動への期待感に決して無視出来ない小さな影が差していた。
その所為かはわからないが、彼が忽然と姿を消した時。僕は驚きも落胆もしなかった。彼と連絡が取れなくなったことが酷く自然な事の様に思われた。木々が色づきやがて散っていくように彼がただ流転しただけの事だと妙に納得したのを覚えている。
きっと初めて紅葉を見る人、落ち葉を見る人は、その木々の行く末を心配し心を傷めることだろう。僕だって最初はそうだった。しかし世界の一部を知ってしまった僕は、葉が枯れる事は生命が途絶える事を意味しないことを知っている。
彼においてもそうだ。恐らく彼は生きている。勿論死んでいるかもしれない。ただ、彼が消えた事と彼の生死に関係性はないだろう。ちょうど今、僕が生きているように。
木が枯れるのはきっと葉が落ちてからと言うのも、また事実ではある。しかし、それもまた、どちらでもいい事だ。我々は遠くの山の木々の色づきを知り得ない。
彼が消えてしまった理由は定かではないが、少なくとも彼の胸中には幾らかの焦燥が渦巻いていたと思われる。
こんなことがあった。
僕ら3人はスタジオの一室で顔合わせも兼ねてバンドの方針を定める会議を行なっていた。
ギターボーカルの彼がいった。
「何か、曲のテーマを挙げてほしい」
「うーん、焦燥」
僕の言葉だ。
彼はなぜか妙に納得する様子を見せて頷いていた。ドラムの一年生はあまり気乗りする様子ではなかったが、一曲目のテーマは「焦燥」に決まるのだった。ギタボの彼は「焦燥」を、テーマに一曲目を創作する事になったのだ。彼は焦燥を家に持ち帰った。
なぜ僕が「焦燥」と口にしたか
「ロックとはギターによる焦燥音楽」
という向井秀徳の言葉が念頭にあった事は言うまでもない。ただ、それ以上に、当時の僕の心を横切る幅広の川の対岸に焦燥はあった。まるで縁日の紐飴のようにどれかを引っ張ったら、釣りあげてしまうような風体で焦燥はあった。
つまりこの日だ。この日、言葉を口にして初めて、僕の中の焦燥は明確な実体を持って生まれた。靄のような存在は雲となり雨となり氷となり、焦燥が焦燥であるが故に僕の心に鋭く突き刺さり、今度はにゅるっと潜り込み寄生された。
彼はたぶん僕の発した焦燥に殺されたのだ。僕の発した焦燥と彼の潜在的な焦燥が詩の上で重なった。詩を書く上でそういった事は往々にして起こりうる。彼の中にも焦燥があった。そして多かれ少なかれ大学三年生とはそう言う時期なのだ。
この仕組みはリレーに喩えるとわかりやすい。
つまり人生のというリレー競技において大学生の君はバトンを受け取り最低4周走らなければならない。次の社会人の君にバトンを渡さなくてはならない。四周目の最後、眼前を後ろ手を伸ばして走る社会人の君に、大学生君はそれ以上の速力で追いすがりバトンを手渡さなければならない。
三周目の最後、そろそろかな…と配置に着く社会人の君の人影を見る。その時の消耗と衝動が大学三年生の焦燥の正体。僕の場合は研究室見学が目の前まで迫っていたが。
だからこそ、走りはじめの一年生ドラマーにその感覚がピンとこないのも当然なのだと思う。
さらに聞けば、ギタボの彼は一年休学した後の三年生であったらしい。もう一周余計に走ってるわけだから疲労もまたひとしおだろう。
そして、何を隠そう、実は僕も彼とまた全く同じ道を辿っているのだ。リレーのもう一周を手にし、そして軽音サークルから音信不通という形で消えた。それも、かの一年生ドラマーと組んでいたバンドをほっぽり出して。ここまで彼と似通っていると最早笑いが込み上げて来るが、見下げ果てた行為である事に弁解の余地はない。
1番閉口したのはドラムの彼だろう。何せオリジナルバンドを組んだメンバーが2人とも蒸発し1人取り残されたのだから。ただドラムの彼も察したのか一度しか催促の電話をかけてこなかった。彼も焦燥による殺人を理解したのだろう。
さて、長々と話してきたが何が言いたかったのかと言うと、特に何かオチがあるわけではない。そもそもこれは、土日の旅行の前書きのつもりで書き始めたのだから。ただ、これらの経緯から私は焦燥から解放されたので、今後暫くはこういった焦燥随筆が掲載されない吉兆だと好意的に解釈していただけるとありがたい。何せ僕の中に人生が溜まりつつあるのだ。
そのため、これまでのエピローグと今後のプロローグとしてこの文書はこのまま幕を閉じさせていただこう。ただ、焦燥は完全に消えたわけではない。心の奥底で眠っているに過ぎない。また僕の脳内を焦燥の文学が席巻する日(恐らく一年後)はそう遠くないのだろう。
P.S
サナダムシは宿主の脳を操り溺死させると言う。焦燥のサナダムシは宿主に現実を生かすのか鬱で殺すのか。そして、僕の中に溜まりつつある「人生」は生へ向かうのか死へ向かうのか。
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