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村上春樹は象を組み立てるお前は何の工場に

象を組み立てる

これは村上春樹の小説に度々出てくる概念である。奇怪だ。ここでいう象は動物の象だ。
鼻が長くて耳が大きい。

象を組み立てる工場、のイメージ
この存在だけで村上春樹には読む価値がある
象の組み立て工場は大きな工場で、鼻とか耳とか足とか体の部位ごとに担当部署がある
それぞれを組み合わせて象の形をなしたら自然界に解き放つ。そんな社会的役割を担う

象を組み立てる工場とは一体何だろうか
なぜ象を組み立てねばならないのだろうか
僕にはわからない。僕にわかるはずもない

ではこの問いに答えはあるのか
ない。それが僕の結論だ


一般的な想定解は色々ある

  • 象と像がかかっている、といった安直な推察
    僕らが得てして組み立てなければならないのは象というより寧ろ像だ。そういう駄洒落というか連想ゲーム

  • 村上春樹の文学研究やら解釈本なんかで必ず触れられている象の組み立て工場の意義。そして、恐らく研究者、解説者がそれぞれの答えを出している。

  • 読者それぞれの答えがあっていいというパターン。これは無痛的な選択だ

  • 村上春樹だけが答えを知っているケース。村上春樹の想定解と読者の想定解が一致している、またはどれとも一致していない

私の結論はこの全てが誤りだとする。
象の組み立て工場はあらゆる論理性を廃絶して立脚している。

つまり、象を組み立てる工場に何ら文学的な意味はないということ。
そこに込められた意味や背景といったものは皆無だということ。
村上春樹にとって、組み立てられるのが象である必然性が何らないということ。

これは感覚の文脈による結論だ。
僕の読者としての
はたして
論理的な根拠がないという主張に
論理的な根拠は必要なのだろうか

これもまた間違いである必要は大いにある。
だが、それは意に介さない。介す必要もない。
なぜなら、僕は今村上春樹の象組み立て工場を「引用」しているから。それも随分と自己本意に

まあ、言うだけタダだから


さて、
あなたが工場に勤務しているとしたら
あなたはそこで何をしている?


これは工場勤務の人には向かない質問だろう。
彼らは普段自分が作っているものを答えるだけだ。
小説家のような、
工場を「形成する場」と概念的に捉えている人にきいてみたい

村上春樹の場合はそれが

象を組み立てること

だった。

それ以上でもそれ以下でもなく、
ただ根源的なイメージとして村上春樹は自分の妄想の中で理由なく象を組み立てていた。
僕には象組み立て工場の意義はそれだけの事にしか思えてならない。少なくともこのnoteの記事ではそのように決まっている

じゃあ、どてっぱらいもり
お前はどうなんだ

まだ自分が幼い頃、児童と呼ばれる頃にこの質問をされたら

左から右に物を動かす仕事

と答えるだろう

当時僕が持っていた工場に対するイメージは、産業革命時代の児童労働のイメージだった。
子供が工場で何を作っているかも知らず、
左から右に物を動かす、文字通りの歯車として従事する。学校にもいけず若い時間を浪費する。
そんなイメージ

その児童労働の枠に自分が収まる必然性は勿論ない。イメージの先行だ。



一年前の僕ならどうだろうか
その答えは

精肉工場

精神から幸せの水を一滴残らず搾り取り、次の工場へと出荷するのがその精肉工場の役目だ。

幸せの水、水の悪魔と水曜日の作業員

出荷


一年前の僕の意識を席巻した言葉だ。台風のように渦潮のように僕の脳内でとぐろを巻いていた言葉だ。

その工場では己の精神を解体し、己を出荷する。出荷の行為者と被行為者が同一だった。

精肉工場が当時の僕のイメージ

これには明確な理由がある。イメージに対する理由の先行。僕は己の置かれた環境を疎んでいた。


なら今はどうか
鮮明なイメージが浮かばない。
映像に霧がかかっている。靄の中の黒い影の輪郭は植物の形をしているように思える

木を植えている

たぶんこれが答えだ。

『木を植えた人』という小説を読んだ。
ジャン・ジオノが書いた短い小説だ。

あらすじはこう、
老人が不毛の地に楢のどんぐりを植え続ける
そのうちのいくつかが芽生える
老人はどんぐりを何年も何年も植え続け
次第にどんぐりは樹木になり、森になり、水を湛え、人が住まい、街が興る

それだけの小説だった

老人は特に見返りを求めていたわけではなかった。特にすることもなく、暇なので荒野に木を植えていた。結果的に老人の森は人々に大きな恩恵をもたらすが、そこに意味はない。木は植えられるべくして植えられていた。何のためでもない。特に理由はなかった。ちょうど象を組み立てる理由などないように


イメージの靄が段々と晴れていく。ベルトコンベアには人の頭蓋骨が淡々と流されている。工場員の僕は傍から若苗を摘みとり、目の前の、頭蓋骨に一つ、また一つ苗を植えつけていく。無造作に。

ジャン・ジオノの『木を植えた人』は多くの読者に何かを残していった。根気強さの大切さを感じ取った人もいた。見返りを求めない善行の美を説いた人もいた。
しかし僕の頭には、何より『木を植えた人』そのものが植え付けられたような気がする。解釈を素通りし、行為だけがインストールされた。
ジャン・ジオノは「本を植えた人」になった。

思想は植え付けられ育っていく
これは植物のアナロジーだ
思想は宿主の知的栄養と信念の水で育つ植物だ

僕がジャン・ジオノに植え付けられたのは
意味もなく木を植えるということ
ただ木を植えるということ

そして僕の中でその思想は育ち、アナロジーをもって敷衍される。結果を顧みず、他者に、世界に何かを植え付け続けるということへと変容していく。

人間は遺伝子の乗り物だ。また、人間は思想の乗り物でもある。そして思想はある人にとっては書籍と互換される。

遺伝子の乗り物たる我々は遺伝子をばら撒き、
思想の乗り物たる我々は思想を振り撒く

僕は木を植え続けるだろう。
それは物理的な形をとった実際の植物かもしれないし、言の葉といった一つ比喩的なものなのかもしれない

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