幸せの水、水の悪魔と水曜日の作業員

みなさんこんにちは
いかがお過ごしでしょうか
「お」から始まり「ら」で終わる人です。

これは名前を隠しているふりして何も隠せていない所が面白い表現ですが、私たちの部に至っては「お」から始まり「ら」で始まる人がありふれていますから、実際に言われると誰の事かわからないのです。ブログのローテーション内ですら1人に定まらないという。

そんなこんなで、どうも小原です。
皆さんがいかがお過ごしかどうかよりも、論ずるべきは僕がいかがと過ごしかどうかなのでありましょう。そういえば僕が札幌でどのような生活を送っているかはキチンと話していなかったように思います。

札幌はいま麗しく涼しい理想的な初夏を迎えています。北海道は過酷で排他的な寒さと、大雪による無慈悲な封鎖もあり、住み良いようで大変住み悪い土地であります。しかし、こと6月の過ごしやすさに至っては日本一といって差し支えないでしょう。気長な太陽と自己表現の得意な木々や花々に包まれていると、僕の内部に着実に幸せが満ちていくように感じます。滔々と降り注ぐ滝の流れを小さなコップで汲み取るような幸せのあり方。器は小さければ小さいほど日々は充足します。

OBライブのMCや個人的な会話で僕が度々口にしていた「出荷」という言葉。この言葉は僕の人生の無常感を代弁する1つのキーワードと言えます。僕は「出荷」に明日屠殺される家畜のような絶望を乗せて語るわけでありますが、実際の人間の場合においては出荷後には出荷後の生活が用意されています。そして出荷の後には次の出荷が待ち受けており、出荷は次の出荷の序章に過ぎないのです。この貨物トラックを分岐ごとに乗り換える反復こそが人生の本質であり、人生は序章だけで構成されます。僕らはその度に自分の意思のいかんに関わらず、バケツリレーのバケツのように否応なく知らない世界に手渡され無頼の旅をします。そして最後は地獄の業火に打ち捨てられる。これが人間の持つ出荷の軌跡です。

しかしまあ、4月以前の絶望とは裏腹に6月の僕は可もなく不可もなくやれています。セケンテイ的に、外骨格的にはそんな形をした人格です。すぐ抽象的になったり比喩表現を用いるのが僕の悪い癖であり味ですね。具体的な話に移りましょうか。

僕は研究室に配属されるのが嫌で嫌で仕方ありませんでした。嫌な理由は沢山あるのですがその内の1つだけをお教えすることとしましょう。全ては教えません。キリがないですし、これも足るを知るということ。オホーツクの海水を100mlのコップに汲むということなのです。

嫌な理由、ですよね。やはりそれは人との距離感です。狭い小部屋に並べられたPCが8台、キーボードを叩く音や溜め息の擦れる音、同僚の独り言や時計の刻む確かな音。こういったあらゆる自分以外の要素が僕のパーソナルスペースに侵食してきます。寧ろ僕の全てがパブリックに晒され視線を浴びています。落ち着かない、気分が悪い。そんなところです。

関係性においても研究室特有の距離感が僕に苛立ちを与えます。今までは大きな講義室の大きな生徒集団の一個人でしかなかったので、数多の個人に紛れる人格の迷彩服を纏えていますた。しかし、教授と私という上下関係が明確な個人的関係性が主軸となり少人数のムラ社会に捨て置かれた終いには、迷彩は取り外され秘匿すべき人格は玉葱の皮を一枚一枚捲るように、徐々にそして相互に閲覧されます。

いつ僕の腐敗した内情が暴露され放逐されるのかという不安と新たな社会に溶け込むために愛する自分を欺かなければならない葛藤と格闘しています。

ただ悪いことばかりではありません。さっき申し上げた居心地が悪い空間はデスクの話。実験室はそれなりに、まあ、悪くはないのです。それぞれが適度な距離を保って長時間単純作業に従事する事ができるので、ある程度パーソナルな領域を物理的にも精神的にも確保できます。

単純作業とは、例えばひたすら「MilliQ」という実験用水を何十リットルも組み続けたり、2000から順に2001,2002,2003…2024と実験用チューブにラベリングをしていったりなどです。

この作業は僕の生まれ年が2002年で、僕が大学を卒業する年が2024年であることから、自分のモラトリアムを一つ一つ数えさせられているような気がして少し嫌ではありましたが、大抵の作業においては、何か別のことに物思いに耽っていても差し支えのない気の楽な仕事です。

研究活動は考える事が活動の主軸にあり、僕は研究への脳の大部分の割譲を余儀なくされます。今までは大した思索も必要ない事柄ばかりで不可侵であった脳の領地が侵略されているのです。そんな研究の侵略の反転攻勢として僕の妄想世界も膨らんできています。最近、前回私が申し上げたような「異世界性」を持つ素晴らしい本に出会う機会が多く、空想と思索の世界に誘拐、幽閉される事も多くなってまいりました。つまり、ウワノソラです。作業中も勉強中も、歩いていても寝ていてもウワノソラです。

妄想世界の自分と現実世界の自分、小説世界の自分と研究世界の自分、その容赦ない陣取り合戦に僕の心の、ちょうど脳以外の部分は実に窮屈そうです。ある意味これは僕の分離であり二つの人格の摩擦と言えるのかもしれません。

そんな摩擦に心の何もかもがすり減って、何だか形もよくわからなくなった時は、僕の大好きな場所に行きます。僕は鴨に会いに行きます。長い日も落ちた北海道庁の夜の池を、悠々と泳ぐ鴨に会いに行くのです。

鴨は波の芸術家です。
鴨は水面に同心円状の波を生み出し、進んでいきます。鴨自体も動いているのですから、波も鴨から逃げるようにして等間隔に幾層も棚引いていきます。そして波は池の端で逃げ場を失い行き止まると戸惑いながらも正確に反射します。反射した兄弟の波はぶつかり合い干渉して水面に丸みを帯びた市松模様を描きます。
そんな不確かな市松模様の上に映り込んだ札幌の夜の街並みは、輝きだけを残して曖昧にぼやけます。それは心で描いた水彩画のように美しく、瞬く間に移ろう気まぐれな芸術でした。
鴨は波の芸術家です。退屈な文明世界を非現実の波で塗り替えてしまいました。

僕もそんな鴨が描いた波の芸術の、その神秘的な水面に自身の顔を写し込んでみるのでした。鴨は貴賤の区別なく水の写す鏡像を無差別に揺るがします。僕の顔はたった今、鏡像となったのだ。輪郭も実態も曖昧な鏡像です。鏡像は己の外面か、内面か。水面は真実を写すのでしょうか、それとも嘘を写すのでしょうか。鏡像は己の第二の人格か、第一の人格か。むこうがほんとでこっちがうそ?鏡像は水面の奥にいるのかな?つまり、現実は鏡像の鏡像ということだ。僕が2つ存在するという事なのでしょうか。水面は境界だ。僕は今、僕を見つめているのでしょうか、僕に見つめられているのでしょうか。現実と非現実は分断されているのか連続しているのか。もちろん水面は揺らいでいます。いや、境界は、揺らぎ、現実と、非現実は、連続だ。僕と僕は異質で同一だ。曖昧にぼやけた僕が池の端から歩き去っていくのが見えます。僕は僕を征服し、僕はただ純粋に僕として家路に着いた。

美しきこの世界の初夏の話。札幌は6月というのに未だに雪の舞う都だった。この度の雪はなんだか毛羽だった嘘くさい見た目であり、公道や建造物といった文明の結晶を覆い隠すにはあまりに心許なかった。寧ろその「雪」は道の脇の街路樹の足元に寄せられ、その姿は土曜日のリビングの隅に掃き溜められた埃の山や手のつけられないほど癇癪な少年に引き裂かれた羽毛布団のようであった。

薄汚い綿毛の山を不機嫌そうに蹴散らしながら僕は僕の勤める精肉工場へと歩を進めた。精神から幸せの水を一滴残らず搾り取り、次の工場へと出荷するのがその精肉工場の役目だ。工場の作業員の間では奇怪な病気と宗教が蔓延している。彼らは感染性の精神病に苦しみ、緑の体に白い足を持つ化け物、「なずなさま」を崇拝して病からの救済を願っているのだ。しかし、実のところ件の「精神病」は「なずなさま」がばら撒いた「種」であった。なずなさまは作業員の心に種を植え付け幸せの水を吸って元気よく成長する。作業員の幸せの水を吸い尽くして成熟したなずなさまは作業員の心から這い出して次なる精肉工場を樹立する。そうやって「なずなさま」は世界中に種の拡大を目論んでいるのだが、皆は「なずなさま」の思惑も自分が精肉工場の作業員である事も、自身の精神を解体している事も知らず「なずなさま」を一心不乱に崇拝している。

私は工場に蔓延する「なずなさま」の精神病に抗うため、水の悪魔「みりきゅー」と契約を交わした。「みりきゅー」は私の肉体からあらゆるミネラルを吸収する代わりに、毎日一杯のコップを渡してくれた。「みりきゅー」は何も語らない。しかし僕にはわかる。このコップは幸せの水を汲むコップなのだ。幸せの水をこの世界のどこかから見つけてきてコップに汲み取り飲み干す。「なずなさま」は幸せの水を吸って成長するが、過剰な幸せの水はかえって「なずなさま」の白い根を腐らせてしまうらしい。「なずなさま」は幸せの水を吸い尽くさないと作業員を操ることはできない。

だから僕は、幸せの水が「なずなさま」に吸い尽くされてしまう前に毎日幸せの池に幸せの水を注がなければならないのだ。僕は今日のコップを貰うために「みりきゅー」に話しかける。昨日よりも一回り大きなコップを手渡した「みりきゅー」のミナモは揺らいでいた。

僕の研究室での生活は大抵水汲みから始まります。「MilliQ」という実験用水を何十リットルも汲み取ってタンクに貯蔵します。これが僕が研究している「シロイヌナズナ」の栽培用の液体となるわけです。「MilliQ」はいわゆる栽培液の土台のようなポジションで極限まで元素や有機物が取り除かれた超純水であるため、手に触れると手の塩分や油分が持っていかれて手がカサカサになってしまうのが少し問題です。しかし、毎朝の大きなメスシリンダーに「MilliQ」を注ぐ時間はなかなかお気に入りの時間です。地道な作業で一歩一歩進捗していく感覚が大きな目標の達成には不可欠であるのです。

その日は雨の少ない夏の北海道には珍しく、夕立が降りました。夕立が降る瞬間というのは、何か特別なものがありますね。まるで世界中の暖色が一瞬にして全て寒色に変わってしまったかのような冷ややかな風が吹き抜け、「雨が来るぞ」と囁くのです。研究室の窓から吹き抜ける夕立の声を聞きつけ、僕は窓から身を乗り出し、玄関の前の水たまりに夕立の大きな粒が波紋を作る様を眺めるのでした。

僕は夕立の降る様を眺めようと身を乗り出したわけだが、それを制止するように窓は無慈悲に閉じられた。精肉工場の女の先輩の仕業である。彼女は無表情で超然としているが「なずなさま」の偶像崇拝には一際熱心である。いつも右手に携えている茶色い液体は「なずなさま」の肥料にちがいない。彼女はその液体を常飲し内部に寄生する「なずなさま」をブクブクと肥えさせているのだ。彼女がすぐさま窓を閉めるその機敏さに「なずなさま」の意思を感じた。唯一「なずなさま」を信仰しない僕から遠ざけたい何かが、その夕立の中にはあるのだ。そうに違いない。彼女が再び自分の持ち場に戻り、「なずなさま」の崇拝に熱中し始めた頃を見計らって、僕は少しの音も鳴らないように慎重に窓を開け夕立の描く水の軌跡を見た。やはりそうだ。これは幸せの水だ。僕は即座に懐から今日のコップを取り出し、幸せの水を汲み一気に飲み干した。幸せの水が僕の胃液と混ざり合って揺らぐのを感じた。彼女の持つ茶色い肥料の液面もまた揺らいでいた。


今日のやるべき事は全て終え、僕は達成感と適度な疲労感に包まれます。こんな時は自分自身を癒し、ほぐし切るため銭湯に行きましょう。いつもシャワーばかり浴びていては身体の芯が凝り固まってしまいますからね。特に露天風呂が好きですね。湯と気温の温度を区切る境界線が僕の中に引かれていくような感覚。悦に入って湯を眺めていると水面に映し出された僕の顔が登りたつ湯気となって僕の顔を濡らすのです。

僕の中の「なずなさま」は一体どれほど大きく膨れ上がってしまったのだろうか。幸せな水を「なずなさま」に与え続けて次の出荷まで逃げ切る事など本当に可能なのだろうか。四月から毎日渡されるコップの容量は少しずつ大きくなっていっている。僕はこのまま順調に幸せの水を汲み続けられるのか、そもそも世界にはどれほどの幸せの水が残っているのだろうか。結局僕は「なずなさま」を大きく育てるために良いように利用されているだけではないのか。しかし、「みりきゅー」のいう事は正しい。「なずなさま」に抗うには「なずなさま」を育てるほかないのだ。いや、あるではないか。もう一つ「なずなさま」を殺す方法が。


次の日、誰もいない実験室に僕は立っていた。「みりきゅー」が今日の分のコップを渡そうとしたが僕は断った。
「もういらないよ」
僕は大きなタンクに「みりきゅー」を汲み取り、水面を見ないように目を強く閉じた。そして勢いよく顔を突っ込んだ。ザバンという音ともに水面には波紋が広がる。
僕と僕は水の中で再び出会いまた一つになった。僕は久しぶりの自身の不安定な感情の律動を噛み締めた。水面はやがて張り詰めたように静まり、ただ僕の息が泡となって破裂する音だけが誰もいない実験室に響き渡った。

コポ。コポ。コポ。
コポ。

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