雑記:供養:若さの秘訣

僕らは毎日を終える度に、一日また一日と死へと前進していく。その歩みを止めることは悲しいかな現代の医療技術ではかなわない。命日はある日必ずやってくる。老いとは万人の永遠の悩みである。しかし、先人たちの悩みと実践のおかげで、死を克服することは叶わずとも老いに抗う術は肉体的、精神的にも様々な方法が存在するようだ。特に僕が着目したのは「新しいことに挑戦する」という老化防止法である。前に母が若返っているという述べたのは、このメッソドによるものではないか。

年を取ると人間の脳は老化する。具体的には加齢により脳が委縮することで、白質や灰白質を失い認知機能の低下へとつながるようだ。大脳皮質に存在するこれらの部位は人間の思考や知覚、運動などの高次機能にかかわる分野である。この領域が失われるということは、人間の総合的な老衰を意味すると言って差し支えない。人は精神・肉体を二項対立として扱いがちであるが、それらは脳機能によって密接に連絡され統合されている。脳とは精神の臓器だ。

「新しいことに挑戦する」というのはそういった脳の萎縮に対して歯止めをかけるのに有効に作用する。新しい挑戦や課題は脳への刺激となり、脳の活性化を促進する。特に言語学習などの知的な活動は脳の記憶力や認知能力の向上に有用だ。

「ジャネーの法則」という有名な法則がある。これは、人間の体感時間が今まで生きた時間に反比例するため、年を取ると時間の進みが速く感じるという法則である。人間の体感時間が、科学的に定義できる代物なのかはわからないが、この法則は論理的にも経験的にも理解しやすいと思う。この「ジャネーの法則」には考えられる他の原因に「新しい経験の有無」があげられる。

幼いころは全てが新鮮だった。ユーミンの代表曲「やさしさに包まれたなら」にこんな歌詞がある。

小さいころは神様がいて、毎日愛を届けてくれた

やさしさに包まれたなら    荒井由実

まだ幼くて何も知らなかった僕らは、世界の全てが新鮮で日常が発見に満ち溢れ、毎日が冒険だった。学んでも学びきれない知識と感じても感じきれない感覚が僕らの未来には待っているように思えた。だが実際は、年を取るごとに一つ一つ情報や体験が既知のものになっていく。僕らの毎日から新規の体験は失われていく。

人間の脳の記憶の仕組みとして、記憶の繰り返しは省くようにできている。脳の記憶処理を軽減するために、すでに知っている情報や体験を改めて保存することはない。つまり、加齢と成長とともに新鮮な体験をしなくなっていくと、僕らは一歳、また一歳と年齢を重ねるごとに新たにセーブされるデータが少なくなっていく。だから、一週間は長く金曜日は地平線よりも遠いのに、大みそかに一年を振り返ってみると「今年ってこんなもんだっけ」と言いたくなるぐらいあっさりと淡白な思い出しか残っていない。そんなことが起こりうる。特に何かに対して挑戦をしてこなかった一年の最終日はきっと悲しい。「今年も色々あったな」と鍋を囲みながら話す大みそかは、その人にとって実りの多い一年だったのだと思う。

僕らに過去など存在しない。あるのは過去の記憶だけだ。自身の過去にまつわる記憶と、過去の行動により生まれた諸々の現実的な物証だけが、僕らの過去の証左となる。現在の自分とは過去の自分の積み重ねである。その証拠に記憶を喪失すると人は自分が誰なのかわからなくなる。僕らの存在がこれまでの記憶の累積である以上、記憶の希薄さは僕らが生きた時間の希薄さに直結する。同じことばかり繰り返していると、僕らの人生は足早に過ぎ去っていく。

裏を返せば新たな体験を通して、重複のない新規の記憶をたくさん脳のメモリーに追加することが出来ればその分生きた時間は長くなる(過去を振り返った時の話、実際に生きる現実時間は変わらない)。新しいことへの挑戦するのは、脳の活性と記憶の増加、二つの意味で老化に抗える。また、この二つは独立した二つの事象ではなく、相互に密接に結びついているように思える。



この文章は先日投稿したnoteの文中に挿入されるはずだったが、なんだか説明的でエッセイの叙情的な雰囲気を損なうと思われたので省略したものである。省略したはいいものの、このまま闇に葬るのもいたたまれないのでここに供養した形だ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?