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「自分のせい」にしてしまう傲慢さ

夏ですね、暑くなってきましたね。単に気温の高さがというよりも湿度が高くて蒸し暑いのが大嫌いです。さて、今回はそれと同じくらい嫌いなことについて書こうと思います。

最近、Twitterなどで所謂インフルエンサーと呼ばれる人や名前の後に@マーケターとかつけている人たちの発信内容の中に、「他人のせいばかりにしてないで」とか「全て自分のせいにすべし」、「文句ばっかり言ってないで」など、これらの言葉がよく私のTLに誰かのリツイートで流れてきます。

そんなインフルエンサーたちが言っている分にはどうでもいいんですが、そこはやはり”インフルエンサー”、私の直接の知人・友人へもそのような言葉を吐かせる影響を持っていました。実際にそういうツイートをしていたり、発信、発言している風潮を見たり、感じるのは、クーラーの効いた快適な部屋から外へ出た時に襲いかかってくる夏の湿気と同じくらいキツいです。なぜ「自分のせい(自責)」を突き詰めろというのが嫌いか、下記につらつら書きます。

①傲慢さ

一言で言えば、それは非常に傲慢な態度であるからです。自分の行為やその結果に対して全責任を自分で負うと言うのは聞こえがいいし、謙虚っぽくてウケが良さそうです。しかしその言葉の裏には「全て自分がコントロールできる」という前提が潜んでいます。これが問題なのです。私たち人間は自分の行為やその結果を全てコントロールできる存在ではありません。泣かないと決意してもそれでも涙が溢れ出てしまうこと、寝たいと思っているのになかなか眠れないことなどの個人レベルの本能的、身体的面もそうですし、女性にとってのガラスの天井や人種差別などの社会構造的側面、豪雨や地震などの天災を私たちは全て自分の手でコントロールできません。そしてここ1年以上に及ぶ私たちが体験しているパンデミックやそれに伴う制限などももちろんコントロールできないことです。個人ではコントロールできない環境や社会の影響や制度、また個人の中で自分でも上手くコントロールできない部分があるにもかかわらず、それを無視して「全て自分がコントロールできる=全部自分のせい」という前提に立つのはあまりにも傲慢な態度だと思います。

②無責任さ

加えて、「全て自分のせいにしてしまう」のは逆に無責任な態度にも映ります。上記のような様々な状況、構造や環境に囲まれている中で、何かを行い、その結果について省みる必要がある場合に、「全て自分のせい」にしてしまうのは、その事実や結果に対して真摯に向き合っているとは言えないと思います。自分以外の他要素を分析せず、「自分のせい、自分が悪い」にしてしまうと、どうしてそのような結果が起こったのかという本当に問わなければいけないことから目を逸らすことになります。つまり、このような文脈では「自責」とはとても無責任かつ当人にとってある意味ラクな方法なのかもしれません。

③「自責思考」の行き着く先

確かに、世の中にはいつも他人のせいばかりにしていたり、無責任な人もたくさんいます。それはそれである意味問題ですが、「自責思考」の行き着く先はもっと問題かなと思います。このクセは重ねれば重ねるほど分厚くなっていき、大きな失敗や挫折をし、立ち直ろうとする時の壁となります。コントロールできないものなのに自分はコントロールできると盲信的に信じているからです。また、自分の感情や他者とのコミュニケーションの際の距離感などを上手く認識できないようになっていきます。それは上記で述べたように、「自分のせい」によって自分の立ち位置や相手の立ち位置、または自分の行動動機になった感情などを測る機会を手放してしまうからです。それらの機会は自己認識や他者認識などの「自分のモノサシ」を形成していく上で重要です。そのモノサシがないと、ただひたすら敷かれたレールの上の人生を歩むしかなく、レールから少しでも外れた場合、途端に全てが破綻します。自分の感情もうまく認識できず掴めないため、ひたすらに生き辛くなるのではないでしょうか。そしてその生き辛さは他の無責任な人やいい加減な人を見て、自分とのギャップを突きつけられることによって増大します。

まとめ

うまくまとめることができないのですが、以上の事柄が私が無闇やたらに語られる「自責」への嫌悪感を持つ理由です。他人のせいにばかりしていてもダメかもしれませんが自分のせいばかりにして自分で自分の首を絞めていくのもよくないですよ。人生なかなか難しいですね。

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