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損しかしない人生かもしれないけれど

今回は路線を変えて自分のこと特に性格・性質について書き下ろしたいと思います。私自身のことなので、共感できる人もいれば、できない人もまあいるでしょう。どれくらいの反応があるかわかりませんが、共感できない人の方が多いと予想してます。別に共感して欲しいとも思っていませんし、ただ今現在の自己認識をまとめたいのと(1ヶ月後には変わっているかもしれない)、もし読んでくれた人の中に1人でも同じように困っている人がいればその人の少しの救いになったらいいなと、それぐらいの気持ちで書いてます。3000字越えと長い文ですが最後まで読んでくれたら嬉しいです。

4つのいらない性質

まず私という人間を自己紹介的に書くと、私は①共感性が高く、②強めの倫理感と理性を持ち、③自己批判を繰り返しながら、④定言命法的に生きている、人間です。このように書けばなんか良く見えますが、全て投げ捨てられるものならぶん投げたいくらい嫌いです。なぜこれらに嫌気がさすのか、一旦それぞれ見ていきます。まず①共感性の高さは、とにかく自分以外の何かに敏感であることです。他人の表情と機嫌を読み解いて意向を汲み取ること、周りの目が気になること、場の空気を読み続け、調和を保とうとすることなどの「見えないものが見える」こと、また周りの景色の変化が気になる、1場面から取る情報量の多すぎるなどの「見えるものが多すぎる」ことが挙げられます。問題なのは、この敏感さそのものとそれが自分自身の感情や体調に向けられないことや、常に受け取った沢山の情報などからネガティヴな予測ばかりを立ててしまうことです。

次に②強めの倫理観とは社会的に〇〇はすべきだとか、〇〇は良くない、〇〇はすべきではないというのが多く、それらは社会的、一般的、普遍的であると思い込み、そしてそれらを絶対守るべきという思考が強いことです。でも実際にはその守るべき基準は自分の中で勝手に設定した基準であるので、他の人にとっては別に気にせず破れる、もしくは破ったことにならないのです。そしてこれが②と繋がってくるのが厄介なのです。相手の機嫌を損ねてはいけないので〇〇はしてはいけない、相手がこうしてほしそうなのでそうするとか、ちょっとリスクがあるから〇〇に陥らないためにも何もしない方がいいなど、ネガティヴな予測と強い倫理観のもとでは行動の選択肢が著しく狭まります。何もしない、できないのでトライアンドエラーに基づく経験がそもそもできないのです。

③自己批判を繰り返すこととは字の通り、ひたすら自分の行動や結果などに満足せず、それらを否定し続けることです。例えば100点満点のテストど80点取れたとしても、取れた80点より、取れなかった20点に目がいき、その80点をカウントできず「0点」にしてしまうのです。そしてその「0点」な自分を徹底的に批判するのです。このような自己批判をほぼ全ての場面で繰り返しています。他人との会話やチャットでの言葉選びであったり、もっとこうしとけば良かったとか、ひたすらそんなことばかりを考えています。そしてこの繰り返す自己批判のおかげで、これまでの人生で努力なんてしたことないと思ってますし、何か困難に向き合ってそれを乗り越えたことがないと認識してますし、自分に満足したこともありません。総じて言えば自分に自信があるなんて一回も思ったことがありません。近年の流行り言葉で言うなら、自己肯定感はとことんマイナスです。

最後の④定言命法的に生きるとは②の倫理観と似ています。これはイマヌエル・カントの仮言命法と定言命法の概念を用いています。この二つの違いを例を用いて説明すると、重い荷物を持っておばあちゃんが歩いているとして、仮言命法では「手助けしたら、何か報酬がもらえそうだからおばあちゃんに手を貸す」というように何かの条件や見返りを想定して行動することの一方、定言命法的には「重い荷物を持っているおばあちゃんは手助けすべき」というように困っている人がいたら無条件で助けなければならないという道徳法則に従って行動することです。そして私は多くの場面で仮言命法的ではなく定言命法的に生きてきました。しかし、事実現在の世では仮言命法的に生きている人の方が多く見えますし、別に仮言命法的であったとしてもそれは悪いことではないでしょう。ただ嫌なのは、マジョリティが仮言命法的であるため、定言命法的に何かしても仮言命法的に見られてしまうことと、自分自身もそれが本当に無条件であったかを問うてしまうこと、さらに定言命法はある意味自分の欲求に従うというより道徳法則に従う点で、主体性を失いがちであることです。肩身の狭さと、理解のしてもらえなさ、そして自分で自分を縛る不自由さと他人とのギャップを感じて生きています。

誕生日プレゼントを贈るだけでも

以上のめんどくさい思考・性格・性質が表出した具体例として先日友人の誕生日にプレゼントをあげたケースをあげたいと思います。そもそも他人の誕生日を覚えているのが得意なほうで、その誕生日の日付を数週間前から意識し始めます。そして1週間前からプレゼントをどうしようかと考え始め、数日前にはどれが良いの決められず、混乱しました。なんとか一つ無理矢理決めて贈ったものの、その後もその無理矢理感のせいか、果たしてそれで良かったのか、本当に喜んでくれているのだろうかを自己批判的に考えてました。また、そもそもプレゼントを贈る必要はなく、ただ「おめでとう」のテキストで良かったのかもしれませんが、いつも仲良くしてくれている友人の誕生日なのだから何かプレゼントを送らなければという使命感、誕生日は祝うべきという定言命法的思考、色んな考え、思考が浮かんでは消えずに溜まり続けていました。これらを考えていると同時に、もうなんか来るとこまで来てしまった感を感じていました。なぜここまで考えてしまうのだろうかと。相手からしたら誕生日にただプレゼントが送られてきただけですし、その他大勢は別にここまで悩まず、テキストだけ送るもしくは贈ったプレゼントに対する反応の吟味なんぞしていないでしょう。

こんな感じで気づいたら友人に誕生日プレゼントを贈るという行為だけで疲弊していました。そしてこの事例をわざと仮言命法的に考えても、果たしてここまでの思考への報酬または誕生日プレゼントの見返りが来るかと言えば、恐らく来ないでしょう。わざわざここまで身を削っても、この意味不明な性質とそれに基づいて強迫された行動は他人に理解されるものでもないし、自分にとって精神的にも体力的にも経済的にも損しかないでしょう

保健教師アンウニョンが教えてくれたこと

このような結果として表出するもの、損しかないこと、周りの他人とギャップがあることなどの状態を解消しようと思っていましたが、ある意味それを良い意味で諦めるキッカケを与えてくれるドラマ・小説に出会いました。それが『保健教師アンウニョン』(ドラマ題)です。主人公は「見えないモノが見える」保健教師で、人知れず「自分にしか見えない悪さをする見えないもの」と闘っていくストーリーです。

毎度「自分にしか見えないモノ」を他人のため学校のために退治していくアンウニョンですが、もちろん他の人には見えないモノなので基本的に誰からも評価されませんし、報酬もありません。その報われなさに不満を抱きますが、やがてそれも諦めます。しかし、ほぼ親切心と使命感だけで行うその退治の理由をこのように語ります。

世の中が公平ではないとしても親切心だけは捨てたくなかった(p.123)。
どうせいつか負けることになってるんです。親切な人たちが悪人に勝ち続けるなんてどうやったらできますか。絶対に勝てないことも親切さの一部なんだから、いいんです(p.274)。

読み取れるのは、損することが多いという現状の受け入れ、正当な評価を求めることの諦め、しかし、それでも自分の良心には従い続けること、そしてそれを自分が評価してあげることの大切さです。これらを無理矢理自分に落とし込むと少しだけ快感を覚えました。それは他人には見えないけど自分には見えるという少しの優越感と、分かってはもらえないし、損なだけなのかもしれないけど何か良いことをしてやってるんだという気持ちを勝手に持つことを肯定してくれたからです。このようなことを『保健教師アンウニョン』から学びとることができました。それでも自分で自分を評価してあげることに関しては前述の③自己批判の精神が邪魔してきそうですが。

そもそも①〜④自体を投げ捨てたり、軽減させる方法を取れば良いのかもしれませんが、それが簡単にできるのならもうとっくに投げ捨ててもっと利己的に生きていると思いますし、これからも投げ捨てられず損しているなあと感じ続けるでしょう。それでもアンウニョン先生のように達観的に、少しだけ悪態をついたり、他人の悪口を言ったりしながら、「見えてしまうモノ」やそんな自分を受け入れて、親切心だけは捨てずに生きていけたらなと思います。(23.08.2021)

参考文献

チョン・セラン著、斎藤真理子訳 『保健室のアン・ウニョン先生』亜紀書房、2020年


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