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「アルプスの女王」に会いに行く

「アルプスの女王」と呼ばれる木がある。

 標高1600m以上の高山に住まう女王様の名はヨーロッパハイマツ(Pinus cembra)。ドイツ国内でまとまって分布するのはオーストリアとの国境近いベルヒテスガルテンと年末年始の4大スキージャンプ大会で有名なガルミッシュパルテンキルヒェン近郊のヴェッターシュタイン連峰の谷間にあるシャッヘン(標高1870m)の二カ所。

シャッヘンには悲劇的な最期を遂げたメルヘン王、ルートヴィヒ二世が造らせた山荘も建っている。ということで、王様と女王様の二人に会いにいく気持ちでシャッヘンに詣でることにした。

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「王様ルート」で山登り

シャッヘンに登るにはいくつかのルートがある。今回選んだのはエルマウ(820m)から上がる時間はかかるもののなだらかな登山道。この道はルートヴィヒが馬車で山荘に上がるために特別に作らせたもので、通称「王様ルート」と名づけられている。業務用の車も通れるほど整備されているのでマウンテンバイクで登る人も多かったりする。

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カルテン川のエメラルドグリーン色の流れを横目に足を進めていくと濃紫色のセイヨウトリカブト(Acoonitum napellus)が草むらの間から顔をのぞかせている。オキザリスに似た白い花があると思ったらウメバチソウ(Parnassia palustris)。山の植生は普段見慣れている下界の植生とはやっぱり違うわいと実感。

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電動マウンテンバイクのペダルをぐいぐい漕ぐサイクリストたちが徒歩の私たちを次々と追い越していった。若者はエネルギッシュでいいねえと羨みながら顔をチラッとのぞくと中には世間的には立派な高齢者に分類される面々もいたりする。いでたちはスポーティーでも深く刻まれたしわが年齢を物語っている。


ドイツ人は年金生活に入る日をずっと心待ちにしていて、リタイヤしたら旅行やら趣味やらボランティアだと人生を謳歌して現役時代よりもよっぽど忙しいという人種だ。日々の生活に疲弊してパワーダウンしている私よりよっぽどエネルギッシュなのは無理もない。お先に失礼、とばかりに笑みを浮かべてたくましく自転車をこぐ姿はひたすらうらやましい。

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汗をかきかき登っていくと、トウワタリンドウ(Gentiana asclepiadea)の紫色の花が目に飛び込んできてかなり高い所まで来たはずと期待しながらあたりに女王様の姿を探せども、周りはセイヨウトウヒ(Picea abies)が目立つほか、山モミジ(Acer pseudoplatanus)がちらほら。思ったほどは歩いていないのかもしれない、ちょっとがっかり。ふと下を見ると光るシルバーアザミ(Carlina acaulis)を見つけた。エーデルワイスと並ぶ高山のシンボルフラワーだ。よし、登ったるで、そんな気持ちが湧いてきた。

女王様のお出まし

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約3時間ほど歩いたところで石灰岩の白さが目にまぶしく迫るヴェッターシュタイン連峰を背景にしたヴェッターシュタイン小屋(1717m)に到着。その先から狭くなった道をあがるとカランカランと鈴の音が聞こえて牛の放牧エリアにぶつかった。

急斜面で牛がへばりつくように草をはんだり、木陰で休憩をしている。登山道を横切る牛もいるけど人間を怖がる気配は全くなし。おとなしそうなふりをしていても、怒らせて万一こっちに突進されては大変と牛と一緒に写真撮影する人達を横目に急いで通り過ぎることにした。 

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そのうちに何やら景色と空気が変わってきたのを感じた。横を見るとピンク色のアルペンローズ(Rhododendron sp.)。そして高くそびえ立ち、岩や山肌に踏ん張るようないでたちのアルプスの女王様達がとうとう見えてきた。思わず「おおー」と声を上げてしまう。ええい、手も振ってしまえ。ムゴマツ(Pinus mugo)がまるで女王様に仕える召使いのようにはいつくばっているのも見える。

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ちょっとここで植物学的な説明をすると、ヨーロッパハイマツは高さ10~25mにまで達する(シベリアでは35mにもなるという)五葉マツ。冬の風雪や落雷によって先端が折れ、樹形がねじれたようにも見えて一見不格好だったりもするが長命で頑健なのが特徴だ。シャッヘン周辺にある木は樹齢250年から300年くらいと推定されるが、千年くらいまで生きられるらしい。しかも日中の40度から夜間-40度までという極端な気温変化にも耐えられるというタフぶり。


歴史の荒波にもまれ、数々の王室スキャンダルをものともせず抜群のカリスマ性で国を導いてきた御年95歳のエリザベス女王に何となく姿を重ねてしまう。やわな奴では女王の役割はつとまらないのは人間も植物も同じ。

ルートヴィヒの居室はヨーロッパハイマツの板張り

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咲き終わってしまった黄色いゲンチアナ(Gentiana lutea)の残る草原を横目に瀟洒なスイスのシャレー(山小屋)風に作られた山荘(1866m)に近づいた。この山荘はルートヴィヒ二世が1869年から71年にかけて作らせた。狩猟用という名目だったが、メルヘン王はちいとも狩猟には関心を示さず、ひたすら自分の空想の世界に閉じこもるのみ。8月25日の誕生日をここで祝うのが慣例だったそう。存命中は通算9回祝い、現在も毎年この日は彼の誕生日を祝う山岳ミサに出席しようとファンが押し寄せるメッカとなっている。

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改装中で残念がら見ることのできなかった山荘の内部は、案内書によると2階には金箔と派手な装飾を壁に施し、正面に噴水をしつらえて贅の限りを尽くしたオリエンタルな「トルコの間」がある。こちらにスポットライトがあたりがちなのだがぜひ1階に注目してもらいたい。(本当に実際に見られなかったのが残念!)質素な作りと表される居間、書斎、寝室、トイレの4室の壁にはヨーロッパハイマツの板が張られているのだ。


ヨーロッパハイマツの材は木目の美しさに加えて比較的軽く、柔らかいので加工に向く。さらに木に香りの良い精油が含まれ、安眠やリラックス効果があるとされ、ヨーロッパハイマツで作られたベッドやタンスなどは結構なお値段で売られている。

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山荘の設計者、ゲオルグ・ドルマンがどこまでその効用を知っていたかは分からないが、精神的に不安定だった国王に安らかな睡眠をもたらしてくれたとしたら、これぞ本物の贅沢。ルートヴィヒがこの場所を愛したのも納得できるではないか。

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天にそびえるアルプスの女王


さて、ルートヴィヒの山荘から約30メートル下がったところにミュンヘン植物園の分室がある。高山植物の植生に関心の深かった初代園長カール・ゲッペルが1901年に開園させてから100年以上が経つ。王様ルートを使って資材を運搬することができたのが場所の決め手となったらしい。

毎年6月から9月初旬にかけて庭師が常駐し、世界各地の高山植物のコレクションが楽しめるようになっている。

そして歴代の庭師が残した写真からは、周辺のヨーロッパハイマツの成長の過程をうかがうことができる。

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かつてはドイツ最高峰ツークシュピッツェが見晴らせたライン谷は木の成長によって眺望はさえぎられるようになり、庭師が寝起きする小屋の脇に立っていた木は100年前も今とさほど変わらない姿だったりする。

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カアと鳴き声がしたので木を見上げるとなにやら動く影が。はっきりとは目撃できなかったけれどホシガラスに違いない。ホシガラスはヨーロッパハイマツの種を餌とし、冬用に土の中に埋めて保存するという術を持ち合わせている。そして忘れ去られた種が発芽することで、新たなヨーロッパハイマツの世代が生み出されるという共存関係にある。


人間とは異なるスピードでゆっくりと年齢を刻むアルプスの女王。精神を病んでシャッヘンの雄大な景色に心を慰めていた国王が逝こうとも、下界の人間たちの営みがどれほど変わろうとも動じることはない。人の手の届かないような絶壁にすら根を張り、誇り高く天を目指して伸びていくのみ。

山を下りていくとき振り返って見えたその姿もまた女王の名にふさわしかった。

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