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黒猫トムの帰還 〜ある魔法猫とそのお友達の物語〜

ー挨拶もなしかや?そこのこんまいのー
 黒い毛並みの艶々とした小さな猫は、周囲をキョロキョロと見回した。まるで「ぼくのことですか?」とでもいいたげに小首を傾げるさまは、どこか人間臭さを感じさせる。
 ーはじめまして、お稲荷さん。お世話になっていますー
 黒猫は言うと同時に、トン トトンと展示台に軽やかに跳躍すると、その上に置かれた明神堂の中を覗き込んだ。
 陶製の明神堂には、素焼きに着色が施された、人間の大人ならば手のひらサイズの、全体的にふくよかなフォルムの狐の人形が一体納められていた。
 細い目。筆で描かれた曲線が笑っているようにも見え、なんとも言えない愛嬌がにじみ出た品だった。
 ーぼくの友達の名前は、ショウ。ショウは、僕をトムと呼びますー
 ーおらは、堤稲荷だっちゃー
 トムは、周囲をキョロキョロと見回した。堤稲荷の声が、どこから聞こえているのかを探す。が、再び小首を傾げると諦めて、明神堂に向けて話しかけた。
 ーこのおうちは、堤稲荷さんのおうちですか?ー
 黒い明神堂をゆっくりと一周する。
 ーこの世での仮の住処だっちゃー
 トムは、明神堂の外壁に前足を置きつつ後ろ足で立つと、更に前足でグイッと押した。
 ー黒くて、頑丈で、八の字みたいなお屋根が立派、ですねー
 ー屋根と胴と土台を別々につくって焼かれておる。明治の末の名工の作品だっちゃー
 堤稲荷は誇らしげにいうと、今度は少し軽蔑したような口調でいった。
 ーほれ、隣の。それは、外国産だっちゃ。何も知らぬ者が作ったからか、入るといづいんだっちゃねー
 トムは、トンと展示台を蹴って隣の展示台に移った。堤明神の明神堂より一回り大きく、心なしピカピカと茶色の釉薬が光っている。
 黒猫は、先ほどと同じように中を覗く。
 何もない。暗い空間があるのみだった。
 ーそれは、見世物用にここの者が持ってきたんだっちゃ。魂入れされておらぬー
 ー魂入れ?ー
 ー誰も住ってはおらぬということだっちゃー
 じゃあ、僕のおうちにしちゃダメかなあ、そんなことをつぶやいて頭から中に入ると、くるりと尻を奥に向けて、明神堂から外へ顔を覗かせた。
 「あら、いいわね。新しいおうち」
 「ミャア」
 トムは、褒められた気分になって機嫌よく答えた。
 白髪を後ろに小さくお団子にした小柄な老婦人は、明神堂から顔を覗かせたトムの顎あたりを撫でてから、堤稲荷の明神堂に手を合わせた。
 「今日も、一日良い日でありますように」
 「淑子さん、おはようございます」
 手に大きな朱色の盆を持った二十代前半と思しき若い女性が、老婦人の後ろに立っていた。盆には、菓子パンが山のように積まれている。老婦人には笑顔を向けていたが、
 「やだ。流石にソコはダメよ」
 と、トムに気づくなり、顏をしかめた。
 「淑子さん、これ朝ごはんです。一人二個。お願いしちゃっていいですか?」
 はいはい、と笑顔で手を差し出した淑子にトレイを渡すと、女性はグイッと明神堂に手を入れ、トムを抱きかかえて歩き出した。
 ー堤稲荷さん。また後で、ですー
 ーまたのー
 女性は、トムを抱きかかえたまま、細い廊下を通り抜け、左に曲がった。透かし彫の装飾が施された木製の手すりがついた石造りの階段を降り切ると、トムは、石畳の床に降ろされた。
 「白石さん。おはよう」
 「おはよございまーす。館長」
 しゃがんだまま視線を上げて、女性、白石は挨拶を返した。
 「館長、このチビちゃん、展示室の明神堂でくつろいでたんですよ。いいんですか」
 「いいよ、いい、いい」
 靴を脱ぎながら、館長は鷹揚とも面倒くさがっているとも聞き取れる言い方をした。                                                                   
 「どうせ、しばらく開館できないんだから」
 「もう、イージーなんだから」ちょっと拗ねた言い方をする白石に、館長は「まあ、まあ」と笑ってトムを抱き上げた。
 昨日も、ふらふらと外の生垣の上を歩いていたトムを、同じように目線まで抱き上げて、館長は、いったのだ。
 「お前もうちに避難するかい?」と。
 「ミャア」とトムは答えた。
 それで、話は決まったのだった。
 今、再び目線まで抱き上げられたトムは、金色の瞳を館長の黒い瞳に重ねて語りかけた。
 ー僕は、トム。友達のショウがつけてくれた。僕の名前はトムですー
 「いつまでもチビじゃかわいそうだから、今日からこいつは、トムにしよう」
 「トムですか?なんでトム?」
 首を傾げる白石さんに、館長自身、首を傾げながらいった。
 「トム・ソーヤのトムじゃねえか?」
 目の前の黒い猫が「ミャア」と同意するように鳴く。
 「朝礼始めますよー」
 職員用玄関と反対側、お客様用入館口の手前にある事務室から声がかかった。
 「おう、今いく」
 「りょーかいでーす」
 答えた二人だったが、カランコロンと来館者用入館口の扉につけられた鋼のベルが鳴って足を止めた。入ってきたは、迷彩服に身を包んだ二人組だった。
 「おはようございます」
 階段上方から声が降ってきた。
 淑子だった。
 黒いコートにマフラー、リュックをしょって、手には、泥のついた、やはり黒い長靴を持っていた。赤い口紅が施された唇がやんわりと微笑んでいる。
 淑子が階段を降り切ったところで、小学校低学年くらいの少年が、階段を駆け下りてきた。男の子に勢いよくしがみつかれた館長の手が緩んだ。
 トムが床に着地したと同時に、館長は、少年の頭をガシガシと手荒になでた。
 「挨拶が先だろう、陽太」
 「おはようございます」
 満面の笑顔で言った陽太に、迷彩服の二人組は、眩しいものを見るように目を細めながら、口々に挨拶をかえした。
 「今日もすいません。佐藤さん。瓦礫だらけだし、女性には大変だと思うんですが」
 「あら、あなた、モテるでしょ、飯田さん。こんな、おばあちゃんに女性だなんて」
 迷彩服のうちの一人の言葉に、淑子は、いたずらっぽく笑ってみせた。
 「淑子さん、まだ、寒いですし、無理はしないでくださいね」
 労わるように言った館長に、淑子は「年寄り扱いしすぎですよ」と笑ったが、その笑みは、ほんの少しだけ疲れを滲ませたものだった。
 「崩れた家と家がね、重なってひしめき合ってて。あれじゃあ、土地勘がないと、元々どこにどなたの家があったのかなんて、住宅地図を見ても分からないの」
 「それにね」と淑子は言葉を続けた。
 「夫が生きていれば、これは区長さんだった夫の仕事だったと思うんです。何よりこれは、年寄りの役目です」
 そして、また、微笑む。
「若い人に、見せたくないんですよ」

 旧日本陸軍の兵舎の唯一残った一棟を改装して造られた、この小さな資料館が避難所となったのは、二〇一一年三月十一日のことだった。
 地震と津波の恐怖から逃れる為、高台にあるこの資料館に次々と押し寄せた避難者は一時、同資料館のおよそ三ヶ月の入館者に当たる2〇〇人にも上った。
 一夜明け、報道で被災地の様子を知った人々は、その惨状に恐怖した。東北地方の主に太平洋岸一帯は、壊滅的とも言える被害状況だった。
 避難所指定されていなかった同館は、二日後に避難所を閉所し、避難者は全て指定避難所に分散して避難することとなった。しかし、その三日後、再度、避難所を開設。自衛隊が救護した被災者の一次避難所の役割を果たすこととなった。
 2011年3月25日現在。
 同避難所は、館長含めた同館の四名の職員が運営。避難者は、三世帯七名。
 加えて、密かに堤稲荷。そして、そこに、トムという名の不思議な猫が加わったのだった。

 ー僕のひいひいひいおばあさんは、ケット・シーという猫の妖精で、お友達の名前は、ウイリアム。海の向こうの小さな島の王国の船乗りだったそうですー
 二階の体験学習室には、館長と二人の子ども達と大学を今年卒業したばかりの一郎、トム、そして、人知れず堤稲荷が集まっていた。
 三月も末に入ったとはいえ、まだまだ寒く、大きな達磨ストーブの上のヤカンは、歌うようにシュン シュ シュンと音を立て、踊るような湯気を吐く。
 トムは、高機と書かれたキャプションがのせられた機織機の端を、尻尾を揺らしながら散歩をしていた。
 ーある日、ウイリアムと一緒に船で遭難して、この大きな島の王様に助けられました。ひいひいひいおばあさんは、妖怪猫又の頭のひいひいひいおじいさんに出会って、一匹だけ子どもが生まれました。その子が、王様のお城でマサムネというお友達に出会ったんですー
 ーふむふむー
 木製の高機から足が浮いて、気がつくとトムは白石に抱き上げられていた。
 「爪とか研いじゃったらダメだからね。学芸員総出でゲージに入れられちゃうからね。っていっても、学芸員一人しかいないけどね」
 「ニャア」
 「そんなこと、しないですよ」と抗議のつもりの一声だったが、白石には通じなかったようで、「かわいくてもダメ」と念押しされた。
 「館長、責任持ってみててくださいよ」
 「大丈夫。大丈夫」
 館長は、隣に座る陽太が書いたテストの答案用紙にマルつけをしながら答える。
 「もう、イージーなんだから」と頬を膨らませる白石の腕をグイグイ押して逃れて、トムは柔らかく優雅に館長と陽太が肩を並べて使っている工作用テーブルに着地した。
 色とりどり、大きさも様々な教科書や、文房具、ノートがトムの足元に散乱している。トムは、注意深く、それらの間と間を縫うようにして歩きながら、一つ一つを眺めた。
 「こいつ大人しいし、悪さもしないし」
 「でも、昨日も脱走したじゃないですか」
 陽太が伸ばした手を逃れつつ、トムは一声「ニャア」と新たな来訪者の訪れを告げた。
 「館長さん、白石さん」
 呼びかけるか細い声に二人が振り返る。
 浅黒い肌に長く強いクセ毛と大きな黒目がちの瞳が印象的な少女だった。
 「コレ書類、意味わかんなくて。読めない漢字も多くて」
 「おう。どれどれ」
  館長は、受け取ると書類を少し目から離して読み始めた。
 「ワタシニホンゴ、ワカリマセーン。ニホンジン、チガイマース、ママモデース」
 陽太の隣、陽太と同学年の司がからかうような口調でいう。更に、得意げに言葉を続けようとした司が、ビクッとテーブルの上に目をやった。シャー!と鋭い泣き声でトムが威嚇したのだった。
 「司、お前、英語できるか?綺羅と綺羅のママは英語で話してるんだぞ?すごいなあ」
 館長の言葉に、司は、唇を尖らせると、くってかかるように言った。
 「綺羅ちゃんのママは変だもん。陽太のママも絶対!出かけてばかりで変だし」
 「僕のお母さんは、仕事に出てるだけ」
 対抗するように言った陽太の頭を、館長は優しくなでた。
 「先生、俺、手伝いますよ」
 教科書をパタリと閉じて、一郎が立ち上がり、館長から書類を受け取った。さっと、目を通すと、
 「うわ!この大きさでも読めないんだなあ。老眼って」
 「若いって素直で残酷!」
「白石さんと俺はそんな変わんないじゃん!」とおどけていう一郎に、館長は「お前らもいつか、老眼に敬意を払う日が来るだろう」と厳かに予言する。
 「綺羅、いこう。話聞きながら手伝うほうが良さそうだから。あと、トム連れてきて」
 いつまでも威嚇を止めないトムを、綺羅が抱き抱えた。
 腕の中でも司に向けて威嚇するように唸るトムに、綺羅がまるで赤ん坊を抱いた母親のようなことを言った。
 「どうしちゃったんだろう。いつも大人しい子なのに」
 二人と一匹は、体験学習室を抜け、旧兵舎内を再現した部屋、階段前を過ぎ、両側に古い仙相町の街並みが映し出された写真が並ぶ細い通路を歩いた。
 「司君、小さいし]
  小さなつぶやき。
「ちょっといじわるな気持ちになっただけだって、わかってる」
 一郎は足を止めた。
 少し後ろを、綺羅がトムを抱えて立っている。
 年齢より大人びてみえる。それでも、子どもだ。
 九歳の司を「小さい」といった綺羅自身、まだ十一歳でしかない。
 一郎は、綺羅の目線まで腰を低くした。
 「ママは、パパに任せっきりだったから、日本のルールとか、わかんなくて」
 「うん」
「ママ、日本語苦手だし。いつも来てくれてた国際交流センターの人も、いないし」
 夫を失い、泣いてばかりの母親の代わりに現実を肩代わりしている小さな女の子。
「頑張ってるよ」
 一郎は、綺羅の頭を撫でてやった。愛おしさと憐憫がないまぜになって、一郎の胸を締め付ける。抱きしめてやりたい、と、思った。
 そうしたら、綺羅は泣けるだろう、けれども、一人っ子で、小さな子どもになれていない一郎には、それができなかった。
 先生なら、迷いなく抱きしめるんだろうけど…と心の中で、思わず苦笑する。
 「ニャア」
  綺羅は、スンっと鼻を鳴らして笑った。
 「なんか、トムって人間の言葉がわかるみたい」
 一郎は立ち上がると笑って、トムの頭もなでた。トムは、目を細めて喉を鳴らした。
 「一郎君は、なんで、館長を先生って呼ぶの」
 「高校の時の校長先生。校長室出入りフリーっていう、ちょっと変わった先生で」
 二人は、また歩き出した。「昔の暮らし」と大きなキャプションが掲げられた展示室の前を通り過ぎる。そこは今、司の一家が住んでいるスペースだった。 
 「一郎君も、春から先生なんでしょ」
 一郎は返事をしなかった。
 卒業式は、地震の前に済んでいる。しかし、春から勤める予定だった県外の私立校は津波に呑まれた。いまだ、連絡は取れていない。
 一郎は足を止めた。
 淑子が、いた。
 廊下の窓際で手鏡を見ながら口紅を塗っている。白い髪をうなじの辺りで小さな団子に結って、黒いニットを着ていた。
 「一郎君のおばあちゃんは、きれいだよね」
 小さな声で、溜息をつくように綺羅がいった。
 七十過ぎなのに華奢なシルエットが少女のようだった。
 木製の上下式窓から入る光が白塗りの壁に反射して、白い髪、白い肌に拡散する光が滲むように、空気に溶け込んでいた。どこか、夢のようにフワフワした光景だった。
対照的な、ニットとパンツの黒。口紅の赤。鮮烈な色。
胸を刺すような色彩が、一郎の胸を突いた。
「おばあちゃん。今日も自衛隊の人とお出かけ?」
いつの間にか綺羅が、一郎の祖母、淑子の前まで歩み寄っていた。
 淑子は、元々カラフルな服を好む人だった。毎日、ワンピースを着ていた。
 花柄のピンク。雲柄に空の水色。水玉模様の多彩な色彩。
 淑子の衣替えは、いつも、子どもが書いたお絵描きのように、色鮮やかだった。
その分、化粧は薄化粧が常で、口紅はほとんど塗らなかった。
 口紅は、仙相町の駅前のデパートで予約されたそれを、店員が避難所を探し当てて届けてくれたのだった。口紅のケースには、祖母の名前が刻印されていた。
 口紅の送り主は、淑子の夫で一郎の祖父だった。
文学を専門とする大学教授の祖父は、寡黙で、家族を顧みるということをしない人だった。退職してから引き受けた区長も、仕方がないから引き受けて、実際は、社交的な祖母が雑務を引き受けているようなもので、地域の住民とも没交渉だった。
 口紅は、そんな祖父が選んだとはおよそ思えない、誕生日プレゼントだった。
 今、祖父の遺体も、両親の遺体も、棺に入れられ地中に埋められ火葬の順番を待っている。津波での死者が多く、いっぺんに火葬ができなかったのだ。
 棺を地中に埋めた日、淑子は、救援物資から黒い服を探し求めた。
 そして、唇を染めるために毎日鏡を覗き込むようになった。 
 執拗に念入りに覗き込む。覗き込む度に、淑子が、夢のようにフワフワと儚げになっていくような気がして、一郎は不安になる。
 一郎に残された、ただ一人の家族。
 その家族が目の前で、日ごと、少しずつ色をを失って、いつか光と混ざって消えてしまうのではないか。そんな焦燥感が、理由もわからず沸き起こり、時とともに重なっていく。
「俺に行かせてよ」
一郎はいった。
「生まれてからずっと住んでる町なんだから、俺だって」
 地図など役に立たないほど崩壊した町を、自衛隊員を案内して歩く。まだ、みつからない人々を探して。淑子でなくても、いいはずだ。一郎にとっても、生まれ育った町なのだから。
「ダメ」
 一郎の言葉を淑子は遮る。
「いっちゃんなんて、コンビニとラーメン屋さんくらいしかわからないでしょ」
祖母の、小さなな子どもを戒めるような、どこかおどけたしかめっ面。
綺羅も「いっちゃん、だって」とクスクス笑う。
 一郎も笑うつもりだった。
 それなのに、泣きたくなって、涙が出そうで、無理やり口角を上げた。

 ーひいひいおばあさんは、マサムネの懐に入って、一緒に仙相にきましたー
 ーほほうー
 堤稲荷は、今日も姿が見えない。
 トムは、ガラスケースの上に立っていた。
 足元のガラスケースに展示された浮世絵の中では、人間のような着物を着た二足歩行の猫又たちが、手ぬぐいを被って楽しそうに踊っている。
 ―身内でもいたのかえ?ー
 熱心に見入るトムに、堤稲荷がからかうように、声をかける。
 ー知り合いがいるかな、って思ってー
 全部言い切る前に、トムは、トン、と隣の展示ケースに飛び移った。
 「もう!」
 トムを捕まえようと手を伸ばしていた白石が、悔し気に口を尖らす。
 トムが振り返ると、白石が右手に持っていた鈴付きの首輪を振った。鈴がチリチリと鳴る。
 「大人しく鈴つけられてよお、ねえ?」
 と白石は、隣に立っていた陽太に顔を向けた。
 「今日も、この子、外に出て、朝、館長に拾われてきたのよ。どっからでるんだろ。毎日、毎日、出て、拾われて、出て、拾われての繰り返しなのよ」
 首輪は、白石のお手製で、赤いフェルトで作られていた。市内は、食料品の店以外は、ほとんどがまだ閉めている。猫の首輪など売っている店はまだない。
 だから、白石は、本当に、久しぶりに裁縫箱を引っ張り出した。小学生か、中学生か、覚えてもいないほど昔の家庭科の実習で使って余っていた小さなフェルトの切れ端を集めて、考えて、考えて首輪を作ったのだ。
 「君のためでもあるのよ。心をこめて、チクチクチクチク、それはもう、千人針レベルの想いをこめて、君の無事を祈って、チクチクチクチク。だから、ね?」
 「みゃあ」
 か細い声で鳴くトムに、白石はめっ、と怒ってみせた。
 「かわいくってもダメ!」
 「かわいくなんかないよ」
 陽太が、トムを睨んでいった。
 「黒い猫なんて、不吉だよ」
 「そんな迷信、よくしってるわねえ。でも、かわいいじゃない。みんなの癒し係よ。いまや」
 白石は、陽太の怒気をやわらげようと、陽太の小さな肩に手をおこうとしたが、それを拒否するように、陽太は踵を返した。
 「そんな猫、拾ってこなきゃいいのに」
 白石は、小さな溜息をついた。
 「ごめんね、トム。陽太君、悪気はないんだよ」
再び伸ばされた白石の手から逃れ、高い棚の上に設置された神棚の上にトムは飛んだ。
神棚と書かれたキャプションが、白石の足元に落ちる。
しばらく睨み合っていた一人と一匹だったが、最終的に折れたのは人間のほうだった。
足元のキャプションを拾うと、白石は溜息をついて階下に降りた。
その後ろ姿に、ごめんなさい、の気持ちを込めて、トムは小さく「二ヤア」と鳴いた。
 
 ーで、そなたのおっぴさまは?ー
 堤稲荷の問いかけに、トムは足を止めた。
 ―えっと、ですね・・・。ぼくのひいおばあさんのお友達の名前は、シュンソウ…、えっと、えっと・・・確か絵描きさんでしたー
 考え、考えトムは答えた。今日も、堤稲荷は声だけ。姿は現さない。
 トムは最近、「昔の暮らし」を再現した展示室にある囲炉裏の上の火棚に座っていることが多かった。
 一番のお気に入りは、魂入れされていない茶色の明神堂、堤稲荷曰く、の中だったが、居心地がよく眠ってしまう。
 白石につかまり、鈴のついた赤い首輪をつけられそうになったことが幾度となくあり、そこを住処とすることは、あきらめたのだった。
 「そりゃ、体育館よりはいいわよ。住環境はね。でも、一緒にいる人たちが…ね」
 「昔の暮らし」の展示室には、司の家族が住んでいた。
 父親と母親と司。
 司の母親の美咲が、スマートフォンで声を潜め、熱心に話し込んでいた。
 「そうそう。外国人の。そう!多国籍料理のお店の!娘さんが、かわいそうで…読み書きできないみたい」
 床から少し高くなった畳の上に座り、美咲は、話を続ける。
 「そう、息子と同い年の。…毎日、お酒臭いのよ。そのお母さん」
 「ニャア」
 天井に近い場所から、甲高い鳴き声が聞こえて、淡い栗色に染められた髪がかかった肩がビクッと震えた。それと同時に、美咲は入り口に立つ息子の姿に気が付いた。
 慌ててスマートフォンの通話を切り、息子に声をかける。
 「司、どうしたの。館長さんたちとお勉強は?」
 「ノート」
 そっけなくいって、司は、美咲の横にあったリュックからノートを取り出し、その場を離れた。
 軽やかなステップを何度か踏んで、火棚から降りたトムがその後ろをついていく。
 仙相町の古い町並みが映った写真が飾られた廊下の途中で、司は足を止め振り返り、後ろをついてきたトムを抱き上げて、上下式窓のそばにあった椅子に座った。
 「お前は、ちょっと軽いね。おばあちゃんちのタマと全然違う」
 司は、そういいながら、トムの頭をなでた。タマは、老猫で大きく、抱くと重みが心地よかった。
 「おばあちゃんちは、ぼくんちの隣でね。いつも、車いすで日向ぼっこしていたの」
 丸くて小さな祖母、祖母の膝の上で丸くなって眠るタマ。
 学校から帰ると、ランドセルをおろして、パートにでて不在の母が用意してくれていたおやつをもって、祖母の家に行くのが習慣だった。
 お茶を入れてあげた。
 おやつを分けてあげた。
 新聞を読んであげた。読めない漢字もたくさんあったけれども。
 祖母が喜んでくれるので、司はうれしかった。
 ある日、祖母の介護にきていたヘルパーのおばさんが、微笑みながらいった。
 「司君は、おばあちゃんにやさしさを教わっているのね」
 よくわからなかったけれども、「優しいね」といわれていることはわかって、うれしかった。
 今は、もう少し、ほんの少しだけ、おばさんのいったことの意味がわかる気がする。
 陽太にも、綺羅にも優しくしたい。
 けれども、口から出るのは、いいたくない言葉ばかりだった。なぜなのだろう。
 一度、悪い言葉を口から出してしまうと、また、悪い言葉しか、出てこなくなるみたいだ、と思う。
 「お母さんはね、みんなと仲良くしなさい、っていうんだけどさ」
 本当に、そう、思っているのかな。
 思ったとたんに、罪悪感に胸をギュっと鷲掴みにされる。それが、誰への罪悪感なのか、司にはわからない。
 「ごめんなさい…」
 泣きそうな声でつぶやいて、司は、トムを抱きしめた。

 淑子は、戦争を知らない。
 戦中生まれではあるが、物心つく頃には戦争は終わっていた。
 大学教授だった夫は、この資料館の開館運動に深く関わっていた。
 江戸時代は藩主の狩場で、桜の時期には庶民にも花見の場として解放されていたこの場所に、明治新政府は、兵舎を作った。
 明治新政府に反旗を翻した東北諸藩では、藩政時代の権威の象徴である場所に、明治新政府の権威の象徴である兵舎を置いたり、逆に、貶めるために遊郭を移動するような措置をとられることが、多かったという。
 仙相では、他に藩主の隠居所の跡地に刑務所が置かれた。豊臣政権下で行われた朝鮮出兵の際に、朝鮮半島からもちこまれた臥竜梅と呼ばれる梅の木は、今も、刑務所関係者と受刑者しか観ることはできない。
 旧兵舎は、戦後、アメリカの占領軍に接収され、返還後は、専門学校として再利用された。
 その後、市が買い取ったが、維持費用が捻出できず、取り壊しの方向で話は進んでいた。民間企業が買い取り、和洋折衷のモダンな造りを活用してレストランにする計画もあったそうだが、夫は、建物の完全な保存を目標に掲げ、市民団体と連携して、資料館開館運動を展開した。
 彼の専門は、国文学だった。研究対象は、古事記。
 資料館開設運動は、職業的倫理観からはじめたものではない、と淑子は思っている。はっきり言葉にすることはなかったけれども。そう感じた。
 淑子より一回り歳年上だった夫には、戦争に何か思い入れがあったのだろうか。
 年に一度、桜の時期に一緒に二人で資料館に訪れると、上下式窓の前で立ち止まり、無言で桜を眺めるのが、夫の常だった。
 その横顔を眺めながら、いつかきいてみよう、と思いつつ、結局は、聞かずじまいだった。
 そして、もう、その機会は永遠に失われた。
 淑子は、千人針の展示ケースを見下ろしてから、ポケットに手を入れて歩きだした。
 ポケットに入れては、それがそこにあることを、確認することが、すっかり癖になってしまっていた。
 黒いケースに収められた赤い口紅。金色の美しい筆記体で刻印された、自分の名前。
 昔、一度だけ、結婚前に、こんな赤い口紅を使ったことがある。
 童顔だった淑子は、少し背伸びしたかったのだ。夫の周りにいる、夫と同世代の女性たちのように、もっと、夫に自然に寄り添いたかった。
 けれども、いつもは穏やかな夫は「娼婦のようだ、みっともない」と、淑子を罵倒した。
 五十年以上も前のその出来事は、二人の道を別けることはしなかったが、淑子は、それ以来、口紅を一切つけなかった。
 なぜ、あのとき夫は、あんなにも激怒したのだろうか。
 夫は、この口紅を、どんな気持ちで選んだのだろうか。
 上下式窓の前に立つ。
 もう少ししたら、自衛隊員が迎えにくる。
 夫と四十年以上過ごした町を、津波で流され、面影のなくなった町を歩く。みつからない人々を探すための道しるべを、自衛隊員に示すために。
 いつもコロッケを買った精肉店。
 夫が通っていた古本屋。
 息子も孫も通った保育所。
 今や跡形もないのに、トラックから降りると、ありし日の情景が、淑子の脳裏によみがえる。
 千人針を、もう一度、見る。
 戦場に往く兵士のために、女性たちが布に一人ひとつずつ結び目を作って、願いをこめて贈った弾除けのお守り。
 展示されている千人針は、戦場にいく夫のために、新婚の妻が街頭にたって、道行く女性に声をかけ、ひとつずつ結び目を入れてもらったのだという。
 夫は、無事帰ってきたのだろうか。
 二人は、幸せになったのだろうか。
 子や、孫はできたのだろうか。
 キャプションに、「その後」の記載はない。
 ものは、人生や想いまでは、語ってくれない。想像するしか、ないのだ。
 街頭で足を止め、結び目を作った女性たちは、誰かの恋人だったのか、妻だったのか、母親だったのか、祖母だったのか。
 私は?
 淑子は、自分に問いかける。
 息子が生まれてからは、母親だった。ずっと、息子のことばかり考えていた。
 孫が生まれてからは、祖母だった。息子より、孫のことを考える時間が多かった。
 主婦仲間も、みんな同じだったと思う。集まれば、夫のことより、息子、孫のことばかりだった。
 けれども、本当に、それが自分の本心だったのだろうか。自分は、もっと、夫のことを考えていたかったのではなかったか。
 そうあることを、周囲にも、夫にも望まれていなかっただけで。
 夫と息子夫婦をともに失って、孫とともに生き残り…今、毎日想うのは、夫のことばかりだった。
 愛だったのか、愛着だったのか、妄執だったのか。
 あぁ、いかなくてはならない。
 私を、みつけなくてはならない。
 口紅と一緒にポケットに入れていたコンパクトを取り出す。
 鏡に写し出された自分を眺める。
 これは、いまの自分なのか、昔の自分なのか、これからの自分なのか。
 口紅を塗る。
 そう、私だ…。
 これは、
 そう、
 わたし。
 「おばあちゃん」
 呼ぶ声に、振り返る。
 若い男だ。おばあちゃん?誰の事?
 手の中の鏡をみる。、鏡の中のわたし。
 手の中から鏡が落ちる。鏡が割れて床に破片が散る。
 散ったのは、破片なのか、それとも、そこに写るわたし、なのか。
 淑子は、ゆっくりと床に膝をついた。
 わたしを拾う。
 赤い血が、滴る。口紅のような、赤。
 わたしが、赤で染まる。
 どこかで、猫の鳴き声が聞こえた。

一郎は、祖母の姿を認めて、立ち尽くした。
美しすぎて、背筋が凍った。
古めかしい上下式窓のそばで、光の中に同化して、消えてしまいそうだった。
「おばあちゃん」
喉から出た言葉が、音になった自信はなかった。
祖母の手からコンパクトが落ちて、鏡が割れた。
ふわりと膝を床に落として鏡の破片を拾った彼女は、右手で拾った破片をごく自然に左手にあて、素早く横に曳いた。
 

 ートムー
 全身の毛が逆立った。今までにないくらい、大きな声でトムは、「ニャアア」と叫んだ。
 ー堤稲荷さんー
 ー大丈夫かや?そなた、普通の猫のようになっていたのではないかえ?ー
 音を聞きつけて体験学習室から、続々と皆が集まってきた。
 最後にやってきた陽太が、憎悪の瞳でトムを睨みつけている。
 ーおまえ、なんで戻ってきたんだよー

 途端に、世界が暗転した。

 クレヨンに塗り潰されたような、ムラのあるねっとりとした黒の世界。
 他は何も見えないのに、一人と一匹には互いが、トムには陽太が、陽太にはトムがみえていた。
 ーここで、しまいじゃ。目を覚さなければ、帰らねばならぬのだっちゃー
 トムの隣の白い水干を着た少年が言った。線で描いたような細い目には、こんな時にさえも、どこか愛嬌が滲みでている。
 ーなんで戻ってきたんだよ、おまえ、なんなんだー
 毎晩、眠っていたトムを抱いて、資料館の外に連れ出したのは陽太だった。
 ずっと先の、外灯もない、月の光も、星の光も、闇よりもなお濃い木立の影さえもない。そんな闇にポンと放ってきた。
 それなのに、この猫は、毎朝、館長に抱かれて、戻ってきた。
 ーおまえが来る前は、みんな笑っていたのに。幸せだったのにー
 陽太には、最初から父などいなかった。笑っていた。
 綺羅の母は、日本語が話せた。笑っていた。
 だから美咲も、陽太とも綺羅の母とも仲良しだった。笑っていた。
 淑子にも一郎にも、最初から他に家族はいなかった。笑っていた。
トムを塗りつぶして消してしまおうとするかのように、更に黒い線が何本もトムの周囲を塗りつぶした。
しかし、トムも、水干の少年こと堤稲荷もよけるそぶりも見せなかった。
 金色の瞳を陽太に向けて、トムは優しく言った。
 ーヨータ君は、幸せだったんですね。そして「今」は幸せじゃないんですねー
 陽太の顔が、泣きそうにゆがんだ。
 被災して大変だね、と皆が口々に陽太に言ったけれども、そんなことはなかった。「前」は学校
から帰ると、疲れ切って寝ている母の邪魔をしないように、カーテンを閉め切った部屋で、なる
べく音を立てないようにしながら、息を潜めているしかなかった。
父は、ふらりとやってきては、母と喧嘩をして帰っていく、迷惑な他人でしかなかった。
 津波にアパートが流され、流されたアパートの屋上で母と過ごした一夜は「今」思い出しても背筋が凍るほど恐ろしかったが、自衛隊のヘリコプターに救助されたのち、収容されたこの避難所で、陽太は優しい、暖かな人たちと出会った。
 避難所で母は、周りと馴染もうとはせず、ふらっと出て行っては酔っ払って帰ってくるようになり、避難所から仮設住宅に移ったある日、路上で冷たくなって発見された。
 父はどうしたのか、震災の日から「今」まで一度も会ってはいない。
 正直、どちらもどうでもいい。どちらも、陽太のことなど、どうで良かったのだから。
 「不幸」な自分のことで、精一杯だったのだから。
 避難所は、家のようだった。そこで共に過ごした人々は、家族のようだった。
 ー淑子さんだって、一郎兄ちゃんだって、ここのほうが、幸せなはずだー
 ーここは、陽太、そなたの心の世界。故に、ここにいるのは、そなただけ。ここにいるのは、そなたと、そなたの思い出の中の人々の残像があるだけだっちゃー
 避難所となった資料館の、すでに信仰から切り離され「資料」となって久しい神の使い。それでも、願いをかけられて、「資料」は、少しだけ神に戻った。
 避難所の人々は、人生の苦には善良さも信仰心も関係ないことを思い知らされていた。
 自らが死から逃れても、毎日が苦しかった。それでも、手を合わせずにはいられなかった。
 祈らずにはいられなかった。祈ることは、自らの心に誓うこととも同じだった。
 今日は一日、良い日にしよう。この子達を、幸せにしよう。と。         
想いはあまりにも強く、強すぎて、歪んでしまった。
「今」の陽太の心の世界を、陽太が思う幸せの世界を黒く塗り込め、他の想いを排除することで守っていった。祈りを捧げられた堤稲荷にさえも干渉できないほどに。この世界の主人であるはずの陽太が、「今」への道を全く見出せなくなるほどに。
 美しい、残像の世界。陽太が笑っていた世界、陽太が幸せになって欲しいと思った人々が、「前」よりも「今」よりも幸せな世界。けれども本当は、陽太一人の世界。それが続くはずだった。
 小さな黒猫、トムが現れるまでは。
 ー違う、違う、違う!みんな、ここにいるんだ!ここにる。本物だー
トムの爪がキラリと光った。黒い世界に大きな裂け目ができる。一筋、光が差し込む。
ーヨータ君に帰ってきて欲しい、そう思う人がいる限り、帰らなきゃダメですー
トムが静かにいった。人が必ず持つ、心の世界。
虚構か真実かなど、論じることは、意味もなく、心の世界に生きることは、罪でもない。けれども、
―ヨータ君が、幸せになって欲しい人たちが、帰ってきて欲しいと願ってるんですからー
 更に、裂け目が広がった。その光の先に、何かを認めて、涙が、陽太の瞳から一筋流れた。惹かれるように、裂け目に手をかけ、大きく、大きく自ら広げる。
 裂け目は、陽太の帰るべき場所への入り口。裂け目の向こう、光の先にあるものは陽太にしか見えない。光の先の向こうのことは、陽太にすら見えない。わからない。それでも、陽太の存在を、その生を望む人が、光の向こうにはいるのだった。
 光が世界に溢れて、塗りつぶされた世界が消えていく。堤稲荷の姿も、陽太の後ろ姿も、光に溶け出した。
 ーありがとでござりしてござりすー
 ーこちらこそ、ありがとでしたー
 小さな黒猫トムは、頭を下げ、上げ、そして、ほんの少しだけ期待を込めて周囲を見回した。
 しかし、どこにも、誰も、影さえも、いなかった。
 ーただいま、ですー
 トムは、涙を目にいっぱい溜めて、それでも、幸福そうに、いった。

「館長」
 呼ばれて、大竹翔一が振り返ると、そこには綺羅と司が立っていた。
 館長ではなくなって五年以上が過ぎていたが、今でも子どもたちは、彼をそう呼ぶ。
「陽太は、今日が峠なんだと」
 長い病院の白い廊下。綺羅と司は、同時に廊下の先の病室、集中治療室に目をやった。
手を握って声をかけたい。顔を見たい。そう思っても、今はままならない。それは、何
も三人だけのことではなかった。世界中に拡大したパンデミックの影響で、今は誰も病院
での面会ができない。
 ここに三人が集まることさえ、患者に身寄りがいないことを考慮して、病院が譲歩してくれた結果なのだ。
「館長、その、手に持っているのなに?」
 綺羅が重い沈黙を破って尋ねた。泣くのを我慢しているかのように拳を握りしめている司の頭を、ガシガシと左手で撫でてから、二人に見えるように右手を開いた。
 狐の形をした素焼きの土人形だった。白い胡粉が剥げかかっている。
 尻尾に「友人トムの帰還を願って」と小さく書かれていた
 「堤稲荷?」
 綺羅が、館長の手元を覗き込んだ。
 翔一は、苦笑した。退職したその日、「今みちゃダメですよ」と白石に渡された小箱に入っていたのだ。「私、イージーなので(^^)/」と書かれたメモと一緒に。
 後日、資料館を訪ねて明神堂をのぞくと、陶器製のキツネが置かれていた。学芸員はもちろん、他の職員が気がつかないはずがない。皆、無言の共犯を決め込むことにしたのだろう。
 狐は、元は、兄の翔太が奉納したものだった。
 一卵性の双子として一緒に生まれたのに、先に逝ってしまった兄。生まれたときから病弱で、二十歳までは生きられなかった。
 その兄が生前、、友人の旅の無事を祈願して奉納した。書かれた名を見て、「外国人かよ?」と問うたのを覚えている。数日後には、進学で一人東京に旅だつ自分の名前でなかったことにがっかりする気持ちもあった。
「再会できなくてもいいんだ。帰ってきてくれれば」そして、「会えれば、本当は、嬉しいけれどね」と、付け加えて、兄は微笑んだ。
教員を定年退職し後、館長として資料館に赴任し、展示室の中に堤稲荷を見つけ、その堂内に兄が奉納した素焼きのキツネをみつけて、驚いた。
兄が亡くなって二十年ほど後、区画整理で堤稲荷は撤去されることになり、資料館に寄贈されていたことを、その時に知った。
 資料館の着任初日、この驚くべき邂逅の中で、翔太が、トムと再会できたのか、願いは叶ったのか、自分が知らないことに気が付いた。
 だから、
 手の中のキツネにどれだけのご利益があるかは、わからない。
 しかし、兄が力を貸してくれるようなきがして、握りしめる。
 陽太には、一郎のようには逝っては欲しくない、というこの願いを、聞き届けてくれるはずだ。
 翔一は、言葉を発することができないでいる司と、その肩を抱いている綺羅の二人をみながら、ふと、思い出した。
 二〇一一年の震災の避難所の日々の中で、一郎の祖母、淑子が手首を切った日のことを。
 故意だったのか、事故だったのかは、わからない。
 呆然として立ち尽くすしかなかった一郎を押しのけて、淑子の手首に手を伸ばしたのは、司の母、美咲だった。
 美咲は持っていたハンカチで、淑子の手首をまくと、次々かけつけた人々に、的確に指示をしていった。
「救急車をお願いします」「車いすお願いします」「淑子さんの上着、持ってきて」
 巻いたハンカチがみるみる血でそまっても、淑子は一言も発しなかった。なされるまま、車イスに乗せられ、上着を肩にかけられ、うながされるまま、司と白石に付き添われ救急車に運ばれていった。
 救急車を見送ると、
 「今度は間に合った」
とつぶやいて、美咲がヘナヘナと座り込んだ。泣き出した。そして、
 「お母さん…お母さん…」
 手で、顔を覆って泣き出した。
 翔一は、ためらいつつ、その肩をぽんぽんと、軽くたたいたことを覚えている。
 美咲の母、司の祖母は、デイサービスで被災し、亡くなった。元々、美咲が介護をしていたが、長い時間を老いた母と家で過ごす日々は、美咲には耐えがたいもので、「社会と関わりを持ちたい」と、デイサービスやヘルパーを依頼して、自分はパートにでることにしたのだ、と、翔一は、美咲の夫からきいていた。
 少し肉付きの良い肩を揺らして泣くこの女性は、ずっと、心に重い後悔を抱えていたのかもしれなかった。
 その日から、資料館の避難者たちは、どこか家族のような親密さと穏やかさを持つようになった。
 美咲は、綺羅や陽太の面倒をみるようになり、綺羅の母親の肩を抱いて、時には一緒に泣くようになった。
 淑子は、資料館に戻ってきた。出血ほど傷が深くなかったこと。一郎が、希望したことが大きかった。
 急に口数が少なくなって、日がな一日上下式窓の傍のイスに座って過ごすようになった淑子の手をとって、綺羅の母が英語の子守歌を歌う姿が、よく、みられるようになった。
 避難所指定が解除された後も、一年に一度は、花見と称して、当時の職員と避難者が集まるようになっていた。
 それも、十年近くがすぎ、ここ数年、必ず参加するのは、翔一と子どもたちと今も資料館で働いている白石だけになっていたのだが…
一郎の祖母、淑子は、八年前、施設で亡くなった。
「孤独死ですよね。朝、職員さんが部屋にいったら、死んでたっていうんですから」
報告の電話で、一郎は、そう、自嘲気味にいった。
 その頃、一郎は私立校の教師の職を辞して、震災孤児の支援をしている団体に再就職し、休みなく働いていたという。母親を失った陽太のことも気にかけて、頻繁に会いにいっていたらしい。翔一が、それ等のことを知ったのは、一郎が死んだ後のことだった。
 元々教え子であった一郎とは、花見で会うことはなくなっても、一年に何度か電話で話をしていた。
 話すことはたわいもないことで、たまには、ウチに遊びに来いよ、が毎回、電話を切る前の挨拶のようになってしまっていた。
 過労死疑惑の新聞記事の中に一郎の名を見つけたのは、半年前のことだった
 一郎が職を変えたことを、翔一は知らなかった。
 いや、違う、訊ねなかったのだ。
 「あいつ、バイトして金貯めて、大学行くって。それ聞いて、大学生活の話とか、そー
 いうの、言えなくて。でも、久しぶりにバイト先の居酒屋行ったら、閉店してて」
 ポツポツと話し始めた司を、綺羅は、痛ましそうに見つめている。
 司は、今日、母親が亡くなったあと、施設を出て一人暮らしをしていた陽太のアパートを初めて訪ねた。
「扉たたいても応答ないし、電話にも出ないから、不動産屋に電話したんだけど。これで、寝てるだけだったら、バカみたいだよね」
陽太の住むアパートの前から電話をしてきて、翔一にまくしたてるように話す司の声は、隠しきれない不安に震えていた。
 翔一は、司にはともかく一度家に帰るようにいい、自ら駆けつけ、待っていた不動産屋に鍵を開けてもらうと、驚くほど何もない部屋に陽太が一人で倒れていた。
 ウイルスの感染、何より栄養失調でとうに限界を超えていただろう、と医師はいった。
「非科学的なんですけれどもね。生きる意思、だと思います。最後は」
 医師の言葉に、陽太の部屋の窓辺を思い出した。避難所で最後に全員で撮った写真と、司、綺羅、陽太が写ったプリクラ数枚。淑子の遺影。そして、一郎と成長した陽太が写った写真。未開封のまま供物のように置かれた駄菓子。
 司が、泣いている。
 「陽太、避難所の時の話するのが、一番楽しそうで。でもって、いつもいうんですよ。教師になって一郎兄ちゃんが、本当にしたかったこと、自分がやるって」
 一郎が教員を辞めたことを、陽太は自分のせいだと思ったのだろうか。
 陽太は、棚代わりの段ボールの上に置かれた写真が良く見える位置で倒れていた。写真を見つめながら、何を思っていたのだろうか。
 施設を出て、学生でもなく、パンデミックの影響で仕事もなく、なんの組織にも属していない陽太は、とりこぼされてしまった。
 いや、とりこぼしてしまった。
 一郎のときと同じことを、翔一は、また、繰り返してしまった、と悟った。
 陽太、戻ってこい、と強く願う。そして、話をしよう。未来の夢の話を。そして、どうか、あの未曾有の災害の避難所での生活が、一番楽しかっただなんて、そんな悲しいことを、真実にしないで欲しい。
 思わず強く握り直した土人形が、ほんのりと暖かくなった気がした。
 「大竹さん、大竹翔一さん。患者さんの意識が戻りました」
 マスクをしていても笑顔とわかる看護師。
 綺羅が司に抱きついた。

 翔太は、目の前の小さな黒猫の話を全て聞いてから、首を傾げた。
 「ウイリアム・アダムス?」
 昔ヨーロッパの船には、ネズミ駆除のために猫が乗せられていたと、何かの本で読んだことがある。
 翔太は、目の前の子猫そっくりな小さな黒猫が、外国人の船乗りたちと楽しそうに船上ですごしたり、江戸の町を、船乗りの肩に乗って見物する様を脳裏に思い描いた。
そして、今も本棚におさまっている幼い日の愛読書の背表紙に目をやった。   
「名前が欲しいっていったよね。魔法の猫、トムはどう?」
 ートム?魔法の猫?ですか??ー
 人語を解するその小さな黒猫が小首を傾げる様子は、どこか人間臭さを感じさせた。
 「そう、君のご先祖様の友達は、王様に新しい国の水先案内人に望まれたんだ。僕が、
好きな物語の主人公トムの産みの親も、旅人の安全を守る水先案内人だったんだよ」
 少年は、微笑んだ。
ー猫又は、年をとった猫がなるもので、最初から、猫又で生まれるものじゃないから、気持ち悪いんですってー
ー猫又は、手ぬぐいをかぶって踊るけど、ぼくは、踊れないですしー
だから、ぼくは、猫又でもない、といって猫でもないから、この国に同族はいない。親や先祖のように「お友達」もいない。だから、帰る場所もない、と、小さな黒猫はいった。
 この、自らの孤独を頑なに信じ込んでいる黒猫の気持ちが、翔太には少しだけわかった。
 翔太と翔二。
そう名付けられるはずだった双子は、祖父によって翔太と翔一。両方が、長男の名前をつけられることとなった。
 生まれてすぐ、兄の翔太の心臓に欠陥があることがわかったがゆえに。
 そう、親戚が話しているのを偶然きいてしまってから、翔太はずっと、孤独だった。
 大事にされていても、愛されていても、さみしかった。
 なぜなのか、わからないけれど、心をひとりぼっちにされてしまった、と思った。
 そんなとき、この黒猫が現れたのだ。
 人語を話していることを翔太にみられてしまった黒猫は、翔太が自分の秘密を漏らさないよう「監視」するといって、日がな一日、翔太の部屋で過ごすようになった。
 ある日、前触れもなく、父母、祖父母とさかのぼって、自らの系譜と、その「お友達」の話を翔太に向けて話しだした。
 何日も何日も続くその話は、まるで、絵物語のように美しく、楽しく、時に切なく…翔太は、魅了され…今日、船に乗ってこの国にやってきた「最初の猫」の話で幕を閉じた。
 そして、また、幕は開かれる。
 今から始まるのは、まだ、未知の物語。
 翔太は、黒猫の目をみて続けた。
「君は、これから海を渡って小さな島の国にいく。そこでひいひいひいおばあさんの故郷、ケットシーの王国を探す」
だよね?と翔太が猫に笑いかけると、猫は、3回首を縦に振った。
「旅はきっと胸躍る冒険の日々に違いないよ。そんな君に、トムはピッタリだ。トムは、冒険の名人だからね!」
 名人、というところで、黒猫の耳がピクリと動いた。
 その様子がかわいらしくて、翔太は思わず微笑む。頭を撫でたいが、それをすると、この黒猫は、いたくプライドを傷つけられるらしいので、控える。
「冒険が終わったら、ぜひ、一度、ここに戻ってきて、僕に話をきかせて?」
 残された日々、時に空を見上げながら、時に風を感じながら、黒猫の無事を祈ることになるだろう。それは、とても、幸せなことのように翔太には、思えた。
 神社の隅の、町の名が付けられた明神堂の、古くは旅の無事を祈ったことから、またの名を「旅立ち稲荷」と称する、霊験あらたかな神の使い。
 その神の使いに祈る。
 友の無事、友の帰還を。そして、想いを託す。
 この黒猫に、「おかえり」をいうことができなかったこと。
 守るあてがないくせに、約束をさせたこと。
 それらへの謝意の気持ちと、今は頑なで、千の言葉、万の想いをぶつけても、伝わらないだろう、翔太の気持ち、この地にも確かに彼の友がいたのだと、伝えてくれることを信じて。
 君が猫又でなくても、ケット・シーでなくても、魔法の猫でなくても、猫ですらなくても、僕は、君が大好きだ。
「だから必ず帰ってこなきゃだめだよ」
トム、心の中で呼んでみる。
「ニャア」
大きく甲高い返事に、少年は今度は黒猫の頭を優しく撫でた。

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