アナロジーとは何か?

僕はよくアナロジーとかアナロジカルな思考とか、何かとアナロジーの概念を用いて説明をしたり、文章を書いたりする。それは単に僕がアナロジーが好きだからなのだが、このアナロジーへの理解が基本になければ僕の話はあまりわからないと思う。
他人の哲学への理解とは、奇人変人の以心伝心である。
僕はそう思っている。普通とは違う変人が考えたことを以心伝心できるレベルまで感じられるとき、その哲学を理解したと言える。
その中で他人の哲学の中の用語は、自分の持つ用語のそれとは用いられ方が違う。中心用語となれば尚更だ。
僕たちは単語を覚えるためではなく、哲学を理解するために勉強するのだ。
国語には国語の哲学が、数学には数学の哲学が、それぞれにはそれぞれの哲学が存在する。
それが僕にはアナロジーであり、リズムであり、文章である。
後ろの二つは別にそんなに珍しい単語でもないし、僕自身珍しい使い方をしているとは思えない。
けれど、アナロジーは耳馴染みのない人もいるだろうし、僕自身も普通の使われ方とは違う使われ方をしているような気がする。
だから、僕の中のアナロジーを説明するしかないのだが、それで勘弁してもらいたい。

アナロジーというのは、一つの人間の能力である。それを簡単な言葉で言うと、同じとみなす、ということである。
例えば、比喩などは一見異なる現象の中に同じものを見ることから始まる。それは人間のみができることで、人間の中でも優れた比喩をするものは、アナロジーの能力が高い。
簡単に説明すれば、それだけのことである。
同じとみなす。
それだけのことである。
そして、アナロジーは人それぞれである。アナロジーはその人に最も依存する能力だからである。
変な人が作家になると思われているが、それは間違いで、多くのアナロジーが人の心を知らず知らずのうちに刺してしまう人が作家になるのだ。それには、別に変わっている必要がない。それよりも、万人の理解できるアナロジーを自らの魂として人々の心の中に宿せるのが、作家としての才覚であるように思われる。
個性、個性、そして個性。
と、最近の話題はそれに集約されるが、人の中には個性があり、それはどのようにアナロジカルな思考を働かせるのか、というただ一点に身体的な特徴以外は集約されると僕は思っている。
そのために、自分の中に概念や知識を植えて大きく育てなければならないし、他人の育ったそれに尊敬と憧れがなければならない。

僕の言いたいことは今のところ集約すると上の二つだけである。
アナロジーは知識や概念を育てなければ発揮できない。そして、その発揮の仕方こそ個性である。
アナロジーを育てるための種は他人のアナロジーへの尊敬と憧れである。
この二つだけのために、僕は書きたいことを書く。
シンプルなものだ。
人の言いたいことなんてシンプルなものだ。
だから、僕たちにはそれを解釈するためのアナロジーがあるのだ。それが僕のアナロジー論である。

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