透明なトンネルで出会う

 ある人が書いた一連の文章を読んだ感想を書こう。

 まず、私は思う。なんというか、数が少ない、と。一つ前のアカウントがあったらしい。そう思うとアカウントというのは一つの区切りであり一つの区切りでしかない。私はかつてこの「区切り」が毎日、毎時間、毎分、毎秒は誇張だがとにかく、「すべては別のものである」みたいなことを思っていた。「すべて」は二重の意味があって全体と全体を構成する要素を意味している。次元を設定したところでその次元をそのように存在させるのはどのようにしてかがわからない。
 さて、昔の私はなぜか「愛」とやらに悩んでいたらしい。しかも私からすれば、いまの私からすればかなり抽象的に。いまも別に抽象的ではあるのだが。
 なんというか、「言語化」ということがよくわからなくなってきた。というか、「言語化からこぼれるもの」という話をするためにはもっと構造を見つける才能が必要なのではないかと思った。なんというか、ただ単に対比や類比を見つけてそれからあぶれるものを「言語化できないもの」例えば「現実」ということにして、その「現実」を「言語化からこぼれるもの」のように「言語」を網のように考えることはなんというか、もっとちゃんとしたほうがちゃんと絶望できる気がして、なんというか、絶望するためにも才能が必要なのだな、と思った。
 私は私がよくわからない。が、それがわかる人がいるらしいということもわかった。私も病名が欲しかったり、鋭くあったりしたい。が、私はそこまで病的でも鋭利でもない。私は私がどのような感じなのかわからない。私は私の文章を読んで、私の名前が署名されているそれを読んでその中にある種の反復を発見する。そしてやっと、なんと言えばよいか、安心するのである。「ああ、私も生きていたのだ。」という感じで。
 なんというか、私は君の方が鋭利だと思うし人間だと思う。なんというか、これがマウンティングだと思われたら残念なのだが本当にそう思うのである。
 もちろん、私はこの「嘘/本当」が確証できるということがよくわからないからすぐさま言われる。「本当にそう思う。」と「思うふりをする。」はどう違うのか、と。私はそれが本当にわからない。だから私は……

 私は人間になるのを怖がっている。不安なのだ。もともと人間であったことがわかってしまうこと、もはや人間ではなくなること、この二つのことのどちらか、おそらくどちらもが。怖がっている。私はそう思う。君は誤魔化しているつもりかもしれない。し、「誤魔化している」ことくらいわかってますよ、と強がっているかもしれないが。

 私は君を責めているわけではない。なんというか、何も思っていない。と言うには話しすぎた。それくらいである。ただ別にこれは誰に対してもそうである。君に対しても私自身に対しても。
 私はしょうもない人間である。私はおどけているわけではない。本当にそう思うのである。この場合は「嘘/本当」の嘘と本当は救いである気がする。人間というのは不思議だ。

私と君は透明なトンネルで出会う。別に言祝ぐ必要はない。

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