対比における勇気の問題

 断言調で書きます。

 アパシーとそれに対比されることの対比構造はアクセルとブレーキとそれに類する対比構造であると勘違いされてしまう。
 アクセルとブレーキは既に自動車に乗っているのだが、アパシーはそもそもそれに乗っていないのである。アクセルとブレーキは相互的であるがアパシーとそれに対比されることは相互的ではない。

 あれ、断言調で書くのって難しいなあ。
 
 昨日、宣言していたように、いや、もしかすると宣言していたからかもしれないが、「希望のアポリア的構造」という論文を読んだ。面白いところも多くあったし、ボルノーやデリダ、リクールはある程度読んだことがあるのでわかりやすかった。そうであるが故に、私の勘違いというか、混合というか、そういうものが目に見えてきた。それが上に書いたアパシーとそれに対比されることの対比とアクセルとブレーキに類する対比との対比である。
 この「アクセルとブレーキ」もある論文からの引用であるが、そのことは重要ではないと思うので書かない。

 さて、自動車にそもそも乗っていないのに乗っている時の話をされることが肯定されうるとするならば、それはどのような時であろうか。それはおそらく、自動車に乗っている時の話をしている時である。その話が嫌なら参加しなければいいのである。しかし、なぜか、どうしても参加しなければならない時がある。私は心の中に「こんな話聞いてもな」という気持ちを持ちつつ、まあ、仕方ないから聞いてやる。ここまでは普通の話だが、その話が巧妙に、「仕方ないから聞いてやる」を押し込めようとしてくるのである。その時、私は気づくのである。アパシーに。
 もちろん、「仕方ないから聞いてやる」の時点でもある程度それはある。というか、それがあるからそういう聞き方になっている。しかし、それが顕在するのは押し込めようとする力に対して、なのである。
 で、ここで問題なのは、そもそもアパシー自体がわからない人はこのアパシーをブレーキだと勘違いしてしまうということである。ここで私は「総合的人間」という概念を思い出す。ただ、それを説明する力も賦活する力も私にはないので、まあ、とりあえず、ここで終わろう。

 急すぎるかなあ。まあ、いいんだけど。ただの日記だから。ただ、もちろん、この「アパシーとそれに対比されること」という「対比」と「アクセルとブレーキ」に類する「対比」自体を対比させることによってそこに共通の構造を見出すことはできる。というか、それができるからここまでの話ができている。
 そう。問題は「対比されうる」を打ち切る勇気なのである。そしてその勇気を認める土壌なのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?