()は私と共に存在するのだろうか、それとも私が本文と()として存在するのだろうか、それともそもそも区別など存在しないのだろうか

 死にたいと思ったことはない。そもそも私は「〜したい」があまりない。そのなさが「死ぬ」にも適用されている。ただそれだけな気もする。
 ただ、私は一つだけ言っておきたい。それは自殺というのはおそらく衝動的なものであり、それが衝動的であると言われるくらいには、なんと言えば良いか、繋縛的であるのが希死念慮なのではないかということである。
 
 と書いてやっと「希死念慮」が何であるかを調べた。すると、これは、相見積もりをちゃんとしていないので間違っているのかもしれないが、「自殺念慮」よりも衝動的なものを指すらしい。反対に「自殺念慮」はもっと継続的なものであるらしい。そう、私は「継続」がよくわからないのである。
 なんというか、ある人、例えば私が自殺したら周りの人はさまざまな理由をつけることができるだろう。たしかにその理由づけはそんなに見当違いではないだろう。しかし、私はおそらく言うだろう。死んだ後に。「いやあ、まあ、そうね、そう言ってもいい、かもしれないけど、うーん。」と。私は明確に「Aだから死にたい」とは思わない。(しかし、死んでしまったら私は話さない。だから結局思っていたことになる。それが嫌で死んでいないと言ってもいいかもしれない。まあ、「言ってもいいかもしれない」くらいで言いたいわけではない。)
 ただもちろん上で書いたようにそもそも私が「〜したい」があまりないというか、それを辛うじて作り出すことによって生きているというか、そういうところがあって……

 なんというか、人はもっと複雑である。そしてその複雑さはおそらく衝動から、そしてその衝動をそれとして存在させるような持続から発したものである。それをもちろん、もちろん複数のトラック、リズム、習慣などでとらえようとすることはできる。し、それは楽しいことである。しかし、それはなんというか、そう、あるときに出されたディナーが素晴らしいからと言ってそれ以外のディナーを断る理由にはならない。強いて、いや強いられて「とらえよ!」みたいな何かがそれこそ衝動的に発せられてやっと、やっとその快楽は駆動するのである。もちろん、健康というのも充実というのもおそらくはそういうことである。し、そういうことでしかない。
 私は私がすることをある種徹底的に受動的に見つめている。それは環境を変えないということではない。が、それ以上に私は見つめている。私のすることを。いや、精確に言えば、動きそうもない私がなぜか動いている、そのことに何か特別な理由をつけようとしている、そいつを見ている。そいつを存在させる要請を見ている。(ここで一つ整理しておくと、ここまでの記述は衝動とその衝動を存在させる衝動の正体としての要請を同一視している。おそらく無意識に。ここがもしかすると本題かもしれない。)
 しかし、こうやってめちゃくちゃメタ、メタとしていくとやがて私は死ぬだろうと思うのだ。なんというか、干からびるわけでもなく、エネルギーが高まりすぎるわけでもなく、なんというか、「まあ、死んでもいっか。」と、あとは偶然で死ぬと思うのだ。偶然生きると思うのだ。そう、なんというか私は九鬼周造の『偶然性の問題』を読んで、そしてその関連書籍をいくつか読んでずっと、そのときにずっとよくわからなかったのだ。九鬼周造の力強さの理由が。もちろんなんというか、イメージはできる。が、それは「わかる」ではない。「わかる」ではない。

 さて、愛する人が電話を欲している。ように見える。「電話したい」のだろうか、それとも……

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