無条件肯定

無条件に肯定する。ことと、信仰する。ということはどのように違うのだろう。
肯定と否定というのは、対立させられることが多いがそんなものなのか?
僕はその対立に何らかの嘘が混じっているようにしか思えない。
対立を分離させることはデリダが試みたことである。デリダはこの二項対立の構造そのものを破壊しようとしたのだ。けれどデリダはその行為そのものが脱構築と構築化という二項対立を生むこともわかっていた。デリダは自己否定的な思想を持っていた。
彼のように僕たちは対立を知っているように振る舞うのではなく、振る舞いそのものを知る必要があるのだ。

否定はそもそも自分の肯定に他ならない。自分を肯定しているから否定するのだ。

という主張が違う言葉で繰り返される。僕もそのことに関しては際立った間違いがないように感じる。
だが、僕が疑問を感じるのは次の場合である。
肯定の場合には否定を用意するべきである。
反証主義が残した遺物だ。
反証というのは否定ではない。反証されることによって生きることができるのだ。思想も時代も。
肯定には否定は必要ない。という状況が想定される。
それが信仰と呼ばれるものである。
けれど、そんなことはお構いなしに、信仰というのはそれのみを強いる。それこそ、否定的な態度であるように思われるのだ。
無条件に肯定する、というのと、信仰するというのでは、否定が存在し得るかしえないかの違いなのである。行動するものの中で存在し得るのが無条件肯定であり、存在しえないのが信仰する。ということである。

だから、この議論はいつまで経っても個人的領域を出ない。外から見る自分と自分から見る自分はいつだって目と鼻の先でありながら誤認識の塊のようなものである。
僕たちは左手で肯定を持ち、右手で否定を持つのではない。僕たちは左手と右手で肯定を持つのだ。危ないそれを自分という否定されない存在に認めてもらうためにいつまで経っても不自由な両手で未来をつかもうとするのだ。
けれど、掴もうとすればするほど、自分の手にある肯定はこぼれ落ちそうになる。挑戦というのが、大衆に勇気と否定を与えるのは、それが危なげのある遊びのように見えるからだ。
自由の女神が右手に持っているのは自由ではない。否定である。左手に持つ文章を否定するという自由を彼女は人類に付与しようとしているのだ。それを自由と呼ばれてしまうことに不機嫌になっているような気もするが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?