文章を書くこととエネルギー

 文章を書くときのドライビングについて考えてみたい。ここでは「ドライビング」という言葉で二つのことを指している。一つは文章の操舵のことである。具体的にはどのような順序で文章を書くかということである。もう一つは……

 今日はこのもう一つのことについて書きたい。上で口籠もっているのはそこで書こうとした「ドライビング」があまりにも一つ目とは違うように思われたからである。私は次のように書こうとした。

もう一つは文章を駆動するエネルギーを節制することである。

 これは別にその通りであり、この文章の結論は、いや、この文章の全体に関わるのはおそらくこのことだけである。しかし、これが一つ目とは次元が違うのは、そもそもこのことが一つ目においてもなされている、つまり一つ目はこの二つ目の下位分類であるからでもあるのだが、それ以上にここには「文章を書く」ということに関する、私の態度が現れているからである。言い換えれば、一つ目は誰でも「文章を書く」なら必要な「ドライビング」であるのに対して二つ目は少なくとも私には必要な「ドライビング」であるからである。つまり、ここでの次元の違いは「人が『文章を書く』ときには『ドライビング』が必要である」と「私が『文章を書く』ときには『ドライビング』が必要である」ということの次元の違いなのである。そして、上で「下位分類」という言い方をして二つ目をより根源的な次元に位置づけているが、それは結局私たちが「人が『文章を書く』ときには『ドライビング』が必要である」ということを理解するためには「私が『文章を書く』ときには『ドライビング』が必要である」ということを理解している必要があると思われるからである。これはもちろん私の独我論的傾向(このように言うと誤解を招きそうではあるが今回は主題ではないので「理解」について私はいまここの私を尊重する傾向があるくらいに捉えてほしい。もちろん、このことはいつかどこかの誰か(これにはもちろん過去の私や未来の私も含まれると思われる。もちろん過去の私と未来の私はその性質がかなり異なるし、それゆえに私は私の人生なり生活なりを支えられていると思うのだが。)を尊重しないということではない。ここでもいまここの私を尊重することからいつかどこかの誰かを尊重することを理解するということが起こっている。私はこういうふうに理解する。繰り返しになるが、これはいつかどこかの誰かを尊重しないということではない。そのことがいまここの私を尊重することから理解されるしかないということを知るべきだということである。)ゆえにそうであり、そのことに関しても議論が必要であると思われるが、ここではとりあえず置いておこう。ここで重要なのは二つ目に含まれる隠された前提を明らかにすることである。

もう一つは文章を駆動するエネルギーを節制することである。

 私にとって「文章を書く」というのは、言うなればおかしなことである。というのも、わざわざ書く理由があるとは思えないからである。これは根本的なことであり、様々な理由をつけることはできるのだろうけれど、それはわざわざ理由をつけるならそうなるだけであり、本当は理由などないのではないだろうか。そういうふうに思っている。わざわざそんなことをしてまで書いて変だなあ、と思っているのである。(ちなみに私は人間的活動と言われるような活動全般に対してこのように思う傾向がある。ここで「人間的活動」と言われているのはその活動をする理由を問われてある程度納得される理由を語ることができる活動のことである。それゆえに私は「理由」や「理由を語る」ということがどうしても嘘っぽく見えてしまうのであって、それの一つが「文章を書く」なのである。)ただ、ここで一つ確認というか忠告というか、そういうことをしておきたいのだが、私は別に「文章を書く」ことに価値がないとはまったく思っていない。少なくとも私は私のものを読んで楽しい。それが価値である。そしてもちろん、他人の書いた文章も同じように読んで楽しい。もちろん読むこと自体が楽しい可能性もあり、私はむしろそうなのではないかと思っているが、それでも読むためには「文章を書く」ことが必要である。それをしているのは誰かというのは難しい問いだが、誰かがしていることは確実である。なのでとりあえず「文章を書く」ことには「文章を読む」ことが楽しいという価値があると私は思っている。だから別に上のように思うからといって「文章を書く」ことが無駄だと思ったことは一度もない。(このことは「人間的活動」全般に言えることである。もちろんその場合「読む」という限定は「受容」や「享楽」という言い方にはなるのだろうが。)
 その上で、私がこの無理由を乗り越えるとすれば、どうしようもなく書きたくなった、と考えるしかない。(もちろん、仕事で書くこともあると思われるが、それは「文章を書く」ということではないということにさせていただきたい。別にこれはそのような仕事をしている人を軽んじているわけではない。別に重んじてもないが。)その「どうしようもなく」というのが上で言われている「エネルギー」である。この「エネルギー」はどうしてわざわざ「文章を書く」のか?という問いを沈黙によって制する。書いてしまっているのだからそんなものは後付けでしかない。それを踏まえてもなお書かれているのだから仕方ない。そういう制圧が「エネルギー」によってなされている。ここで注意しておきたいのはこういう「エネルギー」は別に「文章を書く」ことを始めることだけでなく、中頃でも、終わりでも、一種の狂気として存在するということである。「文章を書く」というのは決断の連続である。そしてデリダも言っているように「決断は一種の狂気である」のだから、「文章を書く」ということは「一種の狂気」によって駆動され続けているのである。そしてそのことが「エネルギー」と呼ばれているのである。
 さて、そろそろ終わりかけである。と、思ってはいる。本当に終わるかはわからない。とりあえず一つ、テーゼのようにしてみるとしよう。

文章を書くというのは文章を駆動するエネルギーを節制することである。

 では、「節制」とは何か。これには極めて多様な手法、振る舞いが存在する。例えば、上でしたようにデリダの名前を出すことも一つの「節制」である。たくさんある「決断」とか「狂気」とか、そしてその関係とかをとりあえず「デリダのように考えている」ことにすることによって「節制」されている。もちろん、その「節制」によって背後にキルケゴールが見えてしまったりドゥルーズが見えてしまったりすることはあるだろうが、それも「背後に見える」という形で「決断」とか「狂気」とか、そしてその関係とかを「節制」することであると考えられる。そして、冒頭では一つ目として挙げていた「文章の操舵」も一つの「節制」である。ある特定の「順序で文章を書く」ということはその順序以外の連鎖反応を無視するという「節制」である。この他にも上でもしていたような「注釈」なども「節制」である。もちろん、論文などは「節制」の塊のようなものである。
 しかし、一つだけ注意しておきたいのは、だからといって「本気を出していない」わけではないということである。文章の本気が宥められて、もっと言うなら抑圧されて文章が出来上がるわけではない。そもそも「抑制」されていない文章など存在しないのである。むしろそれだからこそ「エネルギー」はそういうものとして存在しうるのである。しかし、私はこの「エネルギー」を人生や生活、個人の充実とともに語りたいわけではない。言い換えれば、そのような「エネルギー」が人生や生活、個人を充実させるわけではない。「エネルギー」は充溢するか、抑圧されるか、その両極の間で辛うじて存在する、そんな均衡性なのである。それを保つのが「節制」なのである。
 「文章を読む」のが楽しいというのはおそらく、この均衡性を保つこととしての「節制」のエキサイティングなのだと思う。だからこの文章で例えば、デリダのところでキルケゴールが出てきて、それでしか読めなくなって、究極的には全ての決断が怖くなってしまって、その怖さすらも決断として考えておかしくなってしまうことがありつつも、ドゥルーズが、というよりもむしろ千葉雅也が『動きすぎてはいけない』で説いた、「セルフエンジョイメント」の倫理、一言で言うのは難しいが、次のような指摘は参考になるだろう。

セルフエンジョイメントは、エゴイズムではない。なぜなら「自分に満足する」としても、この喜びは、自分を、自分とは異なる「元素」たち、つまり他者たちの"まとまり"として観ることであるからである。自分とは、複数の他者が「縮約」された結果=効果(effect)なのである。

『動きすぎてはいけない』(文庫版)75頁

 この文章最後の問いはおそらく、「節制」と「縮約」はどう違うのか、という問いであろう。もちろん、正確に比較するとするならばヒューム、もしくはドゥルーズが理解したヒュームを辿る必要があるが、簡潔に書いてみよう。二つはおそらく「"まとまり"を作る」という意味では同じである。そして大方「自分」をどう考えるかということ、そして「喜び」をどう考えるかということに関しても同じである。違うのは「作る」ということについて「縮約」もしくはそれが提示する実践は「できているから制限されているのだろう」ということにおいて考えるのに対して「節制」もしくはそれが提示する実践は「制限されたからできている」ということにおいて考える。(受容者と表現者の違いというか、そういうものと「節制」の二つの仕方(コメンテーター的な「節制」とアディクター的な「節制」)の違いとの違いについて書いてみたいがそれはもう少し待とう。まだ気が熟していない。だから全然うまく言えない。)
 最後に一つだけ。ここではとりあえずわかりやすくするために千葉と私の違いを強調したのだが、共通点の方がむしろ多いのでどこかで協働作業をしてみたいと思う。このきょうちょう(強調/協調)もまた、一つの「節制」である。この「節制」という概念もちゃんと「節制」する必要がある。そう思わされた実践であった。「文章を書く」という実践。

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