2-1-8 他者の表現を受け容れる自分

他者の表現に対して皆さんはどう思いますか。
ああ、凄いなあ。とか、自分だったら違うように表現するなあ。とか、わかりませんけれど、様々な反応をすると思います。
僕はそのような反応を表現という域にまで達させることができたら、もう創造的な自分を表現するということは達成されると思います。
僕はそのような自分を顕在的に表現したくてたまらなくなってしまうのでそのように表現してしまいますが、胸の内でそれを行うのもまた良いと思います。
僕はもう言いたいことは言った感があります。
なんというか、たしかに言い足りないことはたくさんあるのですが、これからは繰り返しになるような気がします。
それでも豊かな表現の可能性を一つ一つさらに豊かにしようという自分の感情に従ってあと七回ぐらいですかね、進んでいきたいと思います。
前の七回をまとめてみようかな、などとも思ったのですが、まとめてみると基本的に陳腐なことしか言っていないような気がするので、意欲が湧きません。
なので、要所要所で振り返ることで振り返りをしたことにさせてください。
話を戻しましょう。
他者の表現を受け容れる自分がどうして表現になるのでしょうか。
それは、出会うことのなかった表現が自分という場で出会うことになるからです。
僕が思うに、それを哲学者たちは無意識に、少数の哲学者は意識のもとで行なっていたと思います。
意識のもとで行なっていた例を挙げると、デリダのコーラ、フーコーのエピステーメーなどが挙げられると思います。
まあ、そんな感じの営みもまた無意識の自分という場を信頼し展開していたのでしょうが。
無意識な場というのはある種傲慢ですし、意味不明です。けれど、豊かな可能性を持つ作品を残す人々はその場について信頼し過ぎなくらい信頼を置いていたと思います。
その信頼が喪失からなのか、名誉心からなのか、まあ、それはなんでもいいのですが、豊かな思想や哲学、文学に触れるというのはそのような場が美しく感じるということです。
言い換えると、場が美しく感じるからこそその場の美しさがなんたるかを知りたいと思うのですね。
その場を受け容れる自分が表現になるのです。
反応というのは場を感じているだけの状態です。表現というのは場に入っている状態です。
だから僕にとって受け容れるという表現は場によって語らされるということなのです。
それはなんというか、とてつもない愉悦です。
その愉悦とは、空を飛んでいる鳥に同期して、見慣れた景色がどれだけ美しいのか知ったときの、あの愉悦です。
受け容れるということは他者に同期し、その瞳で世界を見るということです。
まあ、僕がそのように思うだけですが。
だから、表現は基本的に語らされるということを言っていると僕は思います。
そんな受動的な営みが表現というものか!と言う人は能動的な営みがなんであるか、なぜ能動的な営みが豊かであるか、を考えてみてほしいです。
まあ、僕はそれさえも受動的だと思ってしまうと思いますが。
もし、僕が僕の本当の自分を表現するとすれば、それは「読む」と言う行為によってです。
決して、「書く」ではありません。
今も書いているように見えるかもしれませんが、今まで読んだ書物を引用しているに過ぎないのです。
それがたまらない愉悦なのです。

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