『観葉植物の葉の裏』

2021/10/18「観葉植物の葉の裏」

この「現実」なるものは、いったいどのようなものなのだろうか。「現実など存在しない」と言うのは簡単だが、それを言っても世界は変わらない。「現実」を着々と構築することのできる高次の知性を持たなければならない。

私がいつもニヤニヤしてるのは「馬鹿にしてる」からではなく、なんとなく違和感を感じてしまうからである。たとえば説教などはその最たるものである。私はその内容に関して瞬間的に齟齬を発見し、それがどうしてか考えてしまうからニヤニヤしてしまうのである。それを咎めれても、その齟齬を相手に提示することはさらに咎められることになるので、私はニヤニヤして、完璧に返せるときにだけそれを返すのだ。

価値は私が生み出し、私が愛で、私が喜ぶものである。読者のために書こうだなんて、私にはよくわからないことだ。私は私という読者を喜ばせるために、快楽に進ませるために、こんなにも手を尽くすのである。

浅い触発を無視する力を、私は付けたい。

「切れ」は俳句においてとても大事で、それがなければそれは成り立たないと思うが、それは俳句に限ったことではない。「切れ」というのは可能性を炸裂させるものであり、そこに居たものが空気として吸い込むある種の毒なのである。

「現実」は夢ではないか、と思う人があるだろう。しかし、夢であるとどうなのだろうか。その思考は何を目指しているのだろうか。私はそれがわかったところで、何も変わらないような気がするのだ。

変化は分割と連続という構造の一表象形態である。

存在の驚異は失われることがない。私が存在しているということ、そして周りにたくさんのものが存在しているということ、これに驚かずにどうやって生きていくことができようか。

環境と私は確かに関わり合い、影響され合っているのであるが、その考え方は私にはよくわからない。正直なことを言えば、環境もまた私なのである。

私は経済や政治に興味がまったく出ない。

私は私の肌感覚を信頼している。デカルトが我にそれを求めたのなら、私は肌感覚にそれを求めようと思う。それが仮に錯誤だとしても、それを失うよりはマシである。

遊びと演技を手放すのは許されない。全てが本気で現実なら、この世界ほど面白くないものはないだろう。

自分が環境と接合しているときに、それが環境に接合している自分だということを明確に認識することはとても大事なことである。

たしかに、人生は別に生きる意味も価値もない。ただし、それを人生と呼ぶときにだけは。

孤独は包まれていないという感覚が生じさせるものであるが、私たちは孤独なとき包まれているのである。

孤独。私はそれをあまり感じない。夜空を見れば、そんなこと感じるだろうか。

ものすごくおおきいものをよりどころにすればつらくないよ。

批判は何かに対しての批判であってはならない。

醜いねえ。と思っても、笑え。そして軽々と超えろ。それだけでいい。

たまに哀しいくらい綺麗な文章がある。そこにある孤独や寂しさが文章としてエネルギッシュに展開していくその様を間近で見られるようなその文章は、生み出したものの存在すべてが現れているのである。

「あなた」という呼び声が「君」に届くかどうか、私はそこに共鳴と真実を見る。

私は「伝えたい」のではなく「振るわせたい」のである。「心を」ではなく「存在を」。

私は時折、暗闇そのものをかき分けているような気持ちになる。それは論理が洞察されるあの瞬間と同じ感覚である。

私は立って鏡を見る。けれど、鏡は私の座り姿をそこに映す。

息を吐いたって世界は変わらない。息を吸ったって世界は変わらない。けれどいいじゃないか。変わらないから世界は世界なんだからさ。

鏡とはその表面性である。あちらとこちら、それが確実に映し出されたものであるという感覚。あちらの私がこちらをみているのと、こちらの私があちらをみているのと、それが完璧にリバーシブルになる。それが鏡であり、それが表面性である。

友達を見ていると、「見捨てられる」ことへの不安があるようである。私は見捨てられることへの不安がない。それは私をそんなことまったく感じさせない幸せな人間関係が私にあるからである。その友達を私はどうして安心させられないのだろう。私は少しだけ悲しい。

邪推を邪推だと思ってそれを睨みつけるのは少しだけ知の足りない行為であると思う。

カオスを殺すことはしてはならない。

保留って、結構大事だよ。

緩やかな自己同一性。

涙が綺麗な人を疑うのは世界が存在することを疑うよりも難しい。

橋をかけるのだ。私はついに、橋をかけるのだ。

私は私をシミュレーションするのだ。

私は基本的に四面構造で話を展開しているので、四択が話の所々に現れる。それを選びとって表現するのは表現者の儚さと矜持に関わる部分だと思う。

「努力」論。

私は私以外に評価されることがない。

怠惰への違和感と努力への違和感は繋がっている。また書こう。

本物の作品とはその作者が作らなくても他の人が作ったであろうけれどその人にしか作れなかったと言わざるを得ないような作品のことである

論理は解し、整えるものではあっても、それが価値なのではない。

義憤に駆られよ。また、それを達観せよ。そして、それらを尊い自らの行為として奪還せよ。再奪還せよ。

私の心には一筋のぴんとした花が咲いている。

予想外と予想内は予想された前にも後にも存在せず、何かが起こった後に存在し始める。

世界の前に立つか、世界の中に座るか、どちらを選ぶのが良いのだろう。私はずっとこの選択を延期して、死ぬ時に世界の外に寝転びたい。

夜って意外と明るいよね。

分野と領域と地域とを区別しよう。それは全体と部分に関する意味で。分野というのは他人が作ったカテゴリーで領域は私が作ったカテゴリーである。そして地域というのは私と他人とが共存するカテゴライズのことである。

純文学とはまさに「あらわれの一元論」的な表現形態である。

2021/10/19「釈迦」

高度に構築された構想は文学の光源である。

自分が死んでも作品は残る、ということを生きる意味にすることは私にはできない。私が死んだら作品も死ぬ。

予告された死。

世界ドミノの思想。

俺は死んでも作品は残り続ける、ということに生きる意味を見出している人がいるが、私は自分が死んだら作品も死ぬと思っている。だからそのモチベーションで創作をしていない。私はただ存在そのものと向き合いたいだけなのである。

「死」というのはそれ以前にもそれ以後にも存在しない。

対立構造によって飛び散る火花に価値があるのであって、それ以外は輝きが燻んだただの構造でしかない。その燻んだ光をそれとして無視できないことこそが対立構造にとって問題なのであって、それ自身はあらゆる思考の基礎にある。

永劫回帰は吐き気のする思想である。
その吐き気の正体については、「この人生は再現なのか」というある種の遠さとその凝縮性に見合っていないという自覚とが関わってくると思うが正直よくわからない。

死ぬまでにしたいことリストなんて作ってどうするんだろう。まあ、私は積読がそうなりそうだけれど。

僕はニーチェもショーペンハウアーも好きですが、ショーペンハウアーの方がより好きです。

脱世界と没世界。この二つの往還を繰り返し、私は私であることができる。それは達観と純粋の闘争であり、嫌悪であり、殺害であり、妨害である。この正義や真実のない争いは私のただなかで起こっている。それだけが私であることの証明なのである。

大人になるということが達観できることであるのなら、私はすぐさまそうなれるかもしれない。けれど、私は純粋を捨てたくない。それを捨てれば、生きることは生きることにしかならない。生きることはよく生きるという意志によって生成するのである。

私の純粋は達観に捻られて揶揄いとなる。

昔の私のnoteに好きを押してくれる人は大好きだ。私は素晴らしい作品に出会えるし、なぜかそれを書いたのが私であるという驚きも得られる。それは最も優れた作品との出会い方ではないか。素晴らしさと驚き、それを媒介する既知感。それはやはり、言語の秘密に触れているような気がしてならない。

私たちは階層性に無限を見ることができない。だからしょうもないのである。

比喩性と象徴性の根源で会いましょう。

比喩と象徴について、かなり本質的な発見をしたような気がするが、それはまだまだ表現になっていない。だから「待つ」しかない。

たとえば「私たちには手がある」と言えば「そんなことは知っている」と言われるのだろうが、比喩へのスイッチングはそんな感じの「当たり前」が引き起こさざるを得ないもので、それは不思議な強度を持っている。パロディアスな真実がその本質を宿すように、そんな感じがするのだ。
ちなみにアナクサゴラスだと思う。

哲学をしている時に空なんて見てしまったら、やっぱり自然哲学者になるしかなくなるよ。

経済における価値について。

美しい魂には愛の囁きをしてしまえ。

沈思黙考を邪魔するものは許さない。

2021/10/20「扇風機の外枠」

選挙カーうるさい。

雲を見たと思っていたが雲のようなものを見ているのだった。と思っていたが、雲なんてあるのかとよくわからなくなった。

言葉なしに見たり考えたり感じたりするのはとても愉快だ。

私は比較的「遊び」の才能があって、かなり変な「演技」を行うことができる。それは鍛えてそうなったのではないのだが、これからはこれを鍛えていきたい。

都市は嫌いだ。ビルが高いだけだから。

都市空間は好きだ。裏路地があるから。

今日の空は雲が溶けたような、それでいて澄んでいるような、不思議な空だ

他人に興味が湧かない。というより「興味を湧かせる」ということができない。とても苦手である。

「が」と「は」は本当によくわからない。身体感覚である。

論破してしまったら説得できないよ。

問い直す怖さ。

私には固まりきっていない概念や観念があって、それらはあまり使われない。いつかは使ってわかりやすく自分の考えをまとめたいのだが、それができるまでにはもう少し時間が必要である。

似顔絵と写真の顔、どちらが君らしいかね。

もっと直接的な、そんな力で鷲掴みしたい。

消えちまった悲しみに

馬鹿正直に文字通りに読む、ということができるようになると素敵だと思うけどなあ。シェルター的で。文学の本質的なところもそこにあるような、気がするなあ。

ただ死ぬことほど難しいことはない。大層なことを言わず、もがかず、先駆せず、別世界に希望を持たず、ただ死ぬ。息を引き取ることを息をするように行う。いや、「行う」とさえ言わないような仕方で死ぬ。ただ死ぬ。これほど難しいことはない。それは死ぬ前にもうすでに死んでいるようだからである。

神は足跡を残さない。

神はたしかにいるかもしれないが、神がどうして私たちと関わりを持つのかわからないから、やっぱりパスカルだなと思う。

神だ、神でないと考えるその精神性に興味はあるが、神には興味がない。

比喩は直通的だ。

神。比喩。直通。これらが織りなす布の名前が私の神学の核にある。

思考を洗練するのではなくて、

現状維持心理学者。

私はもっと想像力を働かせて、この世界に対話を生み出さなければ!

絶望とその強度。

深く受け取るか、受け取らないか、それを決めるのは、「触発」という現象のみである。

脳内論破なるものを開発しよう。

古代も近代も現代も存在しない。存在したのは人間だけである。そして存在させたのは自然だけである。

世界がいかにあるか、ということは、より高次の存在にとっては、全くどうでもよいことだ。神は世界の中には顕れない。事実はすべて問題を課するのみで、解答を与えぬ。世界がいかにあるかが神秘なのではない。世界があるという、その事実が神秘なのだ。
『論理哲学論考』198

ウィトゲンシュタインが殺したのはなんだったのか。

なんだろうなあ。こんなこと言うとアレだけど、実存主義はダサい。それは実存がダサいとかそういうわけではなくて、「実存主義」がダサいのである。なんで実存するのに主義的である必要があるのだ。

不安を実存主義で乗り越えようとすることほど滑稽なことはない。

ハイデガーが死の不条理性に気づかないはずはない。気づいていたかはわからないが。

永劫回帰のその永遠性について死後の視点を用いて語るなど何も分かっていない証拠である。彼はこの人生そのものを永遠だとしたのである。この瞬間に無限を見たのである。その仮定によって。

われわれは、死を考えることも、死を期待することも、死にさからって武装することもできないであろう。
『存在と無』

私が開発すべきなのは自分の思想の虚無に耐えうる身体を鍛え抜く方法である。

実存が本質に先立つのは、この場合何を意味するのか。それは、人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿をあらわし、そのあとで定義されるものだということを意味するのである。
『実存主義とは何か』

サルトルには惹かれないが、その考えには共感するところが多い。というよりも、ほぼ同じである。

憧れるということがどういうことかがわからなくなったとき、私は哲学者ではなく詩人になるのだろう。その移行こそが私の存在なのである。

「わからない」ということと「呆れ」。「よくわからない」ということと「憧れ」。「わかる」ということと「憐れみ」。これだけなのかもしれない。私の全部は。

私は何を不安だと思うのか。それを特定し、そこで考え続ける。悩むのではない。考え続けるのである。

落ちるところまで落ちたところが私の始まり。

人生には悲観した方がよく生きる意欲に包まれる不思議な性質がある。

庭に一つの石を置く。それで本当は終わりなのである。

2021/10/21「ファンダメンタル」

幸せは天空ではなく大地にある。このことをどうして疑えようか。

「学」というものを根本的に疑いたくなる。それは「参照」と「引用」の狭間の微かな深淵の話である。

再-○○こそ行為の本質である。アンガージュマンするためにはもうすでに一度以上それを行なってその困難にたどりついていなくてはならない。

どうして長くても百年余りしか生きていないものが永遠以外に自分よりも長いものについて語り得ようか。

丁寧に否定していくことはとても楽しいことである。丁寧に丁寧に否定するのである。

木株の上に座り、森の中に生きていると、自分が木となり、耳から枝が育ち、風に揺れる葉が耳のすぐそばで踊るのが聞こえるようになる。世界はこれほどまでに調和していたのか、そう驚き、世界の根源に手を伸ばすことができるようになるのだ。

あの世はこの世に似ているが、この世はあの世に似ていない。これをどう捉えるか。

世界は視野にあるけれども世界というものは視野にはない。

墓石の前。それが私の好きなところである。

「目覚めよ!」は最高のアイロニーである。

システムへの視線はかなり大事で、それさえあればしょうもないことをしょうもないと言える。

目覚めと眠りの境界線が一つの物に凝縮されているお話の中で、それが失われることが描かれないのは当たり前の話である。

身体などくだらないが、生きるためには必要であるから、生きるのがよいことである人のみがそれを気にすればよい。それ以外の人はとやかく言うのをやめればいい。まあ、勝手に言ってればいいと思うけれど。

カアテンに小さな小さな穴が空いていて、部屋に細い細い筋がピーンと張っている。

この世で一度限りだな、と思えることなんてあまりないから、それを演技して遊ぶことを忘れるのは少し哀しいことである。

自分は変わらないというのは自分の中に明らかな変化を認められないということの言い損じである。

ある、そしてないはない。

ビックバンよりも前。それを考えようとすると、視座そのものの崩壊が見込めて嬉しくなる。

自分を素敵だと思うほど、他を素敵だと思えるようになる。

精神の進歩論。

体の不自然な強張りの「善悪」では「演技」はぎこちないし、それ以上に遊べない。

自由は「自由のため」という言説を許さない。

泥団子を作ることと宇宙を作ることにどんな違いがあるだろうか。

未来が見えたところでどうなるんだろうか。

「ある」、これだけである。

一つの光も見えない宇宙において、動きということはわからないし、光がないなら自分の身体など見えないし、首を振っているような気がしたってそうできているかもわからない。しかし、存在するということだけはわかってしまう。それがこの世に存在する最も不思議な現象でないとしたら。
私はやっぱり哲学をしなければならないのだ。

弁証法は何に関わるものなのだろうか。

私はずうっと孤独である。しかし、孤独であると言い切れない何かが私の周りには踊っている。それを煩わしく思うこともあるが、それを嬉しく思うこともある。

私は社会や集団などの観念に興味はない。他人にもたまにしか興味が湧かない。私が興味を持つのは私とその私を形成している何か、自然と呼ばれるもののみである。

経済が持つ人間をつまらないものにする力はすごい。

「使う」を再考したい。

私には人を説得するパトスなど微塵もない。あるのは自分を展開するパトスだけである。

予定説は好き。

『労働と報酬が正確に数値的に相関したら、人間は働きませんよ。何の驚きも喜びもないですもん。
『日本の文脈』

隷属と転倒以外に人間の勝ち判断が働くだろうか。ニーチェよ。

仮面の比喩よりエクリチュールの方が美しい。

自由は別に孤独を伴いません。大いなる孤独を別として。

絶対的な拒否を手放してはいけない。

予想可能な予想不可能性。
これは「乱置」とパスカルの「賭け」につながる理論的支柱かもしれない。

湯船。

ランダムな性質をもっと丁寧に、優しく、触ろうではないか。

noteにはよく「私の文章は読んでもらう価値があるか」という問いについて考える文章があるが、その文章はそろそろ飽きたから読む価値はないよ。なんてことは言わないけれど、私は私に面白く読んでもらうか、私の思惑なんて全てお見通しの神様みたいな存在に笑って読んでもらうために書いているから、そもそも「読者」が抜け落ちているので、その問いが問いとして機能しない。私のものは「作品」であって「読者のための作品」ではないのである。「私」か「神」に向けたものしか私は書けないのである。

もし私に私が評価を下せるとすれば、それは私という神か、もしくは神が私に宿っているかするからである。

どうして社会なんてものに興味が湧くのか。私には全くわからない。集団も同じだ。他人には少しくらい興味はあるが。

悪とは、システムを無批判に受け入れることである。
ほんとに?

より崇高なものとの共依存。

フロー。

成長と手を切り、洗練と手を繋ぐ。

人間は不合理的ということを避ける不合理的な生き物である。

困ったことに、私が依拠できることなんて、万に一つもない。というより、この宇宙に依拠することができるものなんて一つもない。これはとても面白いし不思議なことである。

私の住んでいる家は二階建てだが、一階にいてカーテンが深く閉じられていると、「ここは何階なのだろう。」と不思議なことを思うことがある。目を瞑ってみると、どこにいるかなんてわからなくなるのだ。

私は私という自己に興味はない。私という現象に興味があるのである。自己分析なんてクソ喰らえだが、自己展開は大好きなのである。

展開にとって遊びと演技は大切な要素である。なにせ、遊びは純粋な現象性に関するものであるし、演技は純粋な実験性に関するものだから。

2021/10/22「パート」

人脈ってなんなんだろうね。

タブララサの方法的使用。

太陽が存在させている世界を闊歩するということこそが人生なのである。日陰にいたとしても、太陽は暖かい。太陽を信仰した宗教者の面持ちが私の面持ちと異なるところがあるだろうか。そんな不思議な感慨に私は襲われるのだ。

詩人は日々を詩的に生きるお手伝いをするのだ。

断捨離が好きなら自分をまず捨てたら?

自分の中で渦巻くよくわからないものを「よくわからない」としっかり言えることはとても大切な教養である。

私は心に悪魔を住まわせる。そうしないと精神衛生上悪いのだ。

精神の紐帯は記憶による「私みたいな感じ」のトンネルが生み出すものである。

作品とはある意味でノスタルジーの完遂なのである。

僕はアイデンティティ以外のために異質性そのものになりたい。

私はいつか、自分の精神に訪れるやまない戦争を止めるために知の身体を洗練させている。

知行合一は確かにその通りかもしれないが、少しだけヘーゲル的に野暮である。

著名になりたいと私は思う。それは私に連関してくれる人の絶対数が増えるだろうという希望的観測によるものである。
つまり、思想というのは連関してくれる人によって成り立つのであって始原など存在しないのであるからある一つの重力の中心にいてそれ重力から自由になろうとすることは大いなる対話の場として機能するということである。

作品は最も反脆弱的なものなのでないだろうか。

私は人を一つの気分に落とし、底まで到達できるように補助することが作品の価値であると思う。特に文章において。

私は引き込まれるような文章ではなく引きずり込まれるような文章を書きたい。

「思想無きところには真の言語なしといふべし」
島月抱月

空はいずれも透明な君なのである。私がいつも問われるような、透明でありながら薄く反射する君なのである。

純文学は大きな物語の消滅によって生死を彷徨っているかもしれない。けれど、私は純文学の感動を忘れられない。だから、私はそれを価値とする。これは信念の闘いなのである。しかし、自殺ではないようにしなければならない。私が死んだら、その価値さえも一つの物語となってしまう。私は系譜の再興に力を尽くすのだ。私は私をどうでもいいけれど、系譜への愛は尽くし切るまで失ってはいけないものなのだ。

文章は思考の身体とならねばならぬ。

文章は精神を真似るのである。

人格とはあらゆる裏打ちの中で最も濃い裏打ちである。だからこそそれは自己同一性などではないのだ。そんなものに担えるものではないのだ!

2021/10/23「マジカルバナナ」

長期の視点が大事だ、っていうのが短期的な視点だとしたら、どうする?

私と世界のカットアンドリミックスこそが表現の大事な一つの性質である。

泣くというのは主体的な行為である。

そもそも、主体的でない行為というのは存在するのだろうか。私は行為ということを「再-○○」として考えるから、そこから考えると、主体的でない行為はそもそも行為ではないと言わざるを得ないのではないだろうか。

哲学をする、哲学する

考えるコツは空中階段を幾つ心の中に持ち得るかをちゃんと知っておくことにある。

オートマティカルなものを己が抱え込んでいることを自覚することこそこの世界の真実を知ることになる。まあ、それは真実でしかないのだけれど。真理ではないのだけれど。

根源への帰還。それが哲学者の勇姿そのものである。

やってみりゃいいんじゃない、が可能かどうかを考えるためにだけ、

私たちの才能は「拾い上げ」依存である。

ルサンチマンの自己展開をどれほど許すか。

「つまらない」文章というのは「たしかに」と思うだけの文章である。それ以上の喜びも感動もない。ただ情報を得ることほど虚しく淋しく先が見えてしまうことはない。

効用価値説はたしかにそうなのだけれど、じゃあ「効用」ってあなたたちの言うような「使い勝手」とか、そういうことなんですか。ということになる。

澄んだ瞳で私を見てくれ。自然よ。

統計はつまらない。

自己肯定はもっと壮大にせよ。

完全な公正など実現してしまえば、かなり面白くない社会が訪れるし、おそらく今以上に停滞する。だって、ズレがなくなるんだから。

差別主義者はある意味で最も差別的でない。
なぜなら、差別主義者が差別しうるのは同質的な人間だけだからである。
彼らにとっては同じ階層にいる人間だけが差別対象なのであり、それを無差別に広げることは逆に非差別的になるのであるから、彼らは差別主義者であるために階層の裁定から始めるのである。
これは極めて非差別的で社会から押し付けられたものであるから、差別主義者は極めて社会的なのである。
そして階層の想像力は無限にないことを考えれば、やはり並列性としてそれらを展開するしかなく、やはり考えうる限りでは差別しかできないのである。
差別主義者は差別をするのではなく差別しかできないのである。
これは極めて非差別的なことである。
なぜなら、差別とよく比せられる区別は「それしか行えない」という一種の認識の限界を表しており、このことから考えるに差別主義者は区別を差別だと言い張ることによって同じ階層の人間を増やすのだ。
そしておそらくこのことしかできない。それは並列に対する想像力が無限であるのに対して、階層に対するそれは無限ではないと理解せざるを得ないくらい想像力に欠けているからである。
つまるところ、彼らは自分の想像力の少なさを嘆くために差別をするのであって、それを自由に選択しているわけではない。
彼らはやたらと自由が好きであるが、それは完全な無い物ねだりである。というのも、自由というのは階層と並列の無限性によるものだからである。一人一人の人間が一人であることで細胞として存在することこそが世界というところに生きることになるのだ。
そして自由というのはそのことを自覚し、それを総覧しようとすることなのである。自由には何にも拠らないが故に自由なのであり、それはやはり観照的であらざるを得ないのである。彼は中途半端な実践家であり、中途半端な理論家であり、悲しき平等主義者なのである。

平等が大きくなればなるほど、常に、平等の欲求が一層飽くことなき欲求になる
トクヴィル

自己実現で実現したい自己を実現したところで、君は何を実現したことになるのだい。

何かを選んだということは他を選ばなかったということであるが、何も選ばなかったということは選ぶを選ばなかったということにしかならない。

私は貴族主義的である。そして理想主義的である。この深奥には私には開示も許されぬ一つの真理があるのである。

すぐ言葉にしようとするのは人間だけである。

詩を書くのではない。書かないのである。

仕方がないじゃないか。君たちの「使う」は美しくない。

詩を書くというよりも迷うのである。無文字の迷いである。

2021/10/24「テキデザイン」

ナニー・スティル

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