全体性を失う現代

能力値を見て育てるポケモンを決める。
そういう友達の話を聞いたとき、僕はそれを自分のことだと錯覚した。自分の可能性を信じろ。というのは、自分の能力値を見て自分で育てるものを決めろ。ということのように思われたからだ。
友達はもちろんそんなことを言っていたのではなく、ただ単に強くなるポケモンを育てたかっただけだろう。
しかし、何かと敏感だった僕にはそのように聞こえたし、今でもそのように聞こえる。
この文章を書けているのは、僕が成長して別の視点を論のときに用意できるようになったからでしかない。
僕はまだ子供の頃の感覚を信じている。
僕もゲームをすることは少しだけある。それは好きなサッカーのゲームだ。当然、それぞれの選手には能力値がある。だが、僕は現実の彼らを見ているので、そんなものを気にせず、好きな選手、好きなチームを使っている。
その頃の友達に言わせれば、少しでも能力の高い選手やチームを使うほうがいいだろう。だけれど、僕はそんなことはしないし、そもそもできない。そんなに細々したことを考えられないのだ。
だけれど、世間は細々した値にくびったけである。僕はその現象が不思議でたまらない。値というのは、つまるところ、他者の値でしかない。ポケモンも自分の能力も。
僕たちは細々した値の集合体ではなく、僕たちこそ値なのだ。僕たちはもっと大きな目で自分や他者を見ていくべきではないのだろうか。
たしかに、値は大切な時もある。けれど、それは自分の利益になるからである。僕たちはもっと現世的でない利益を求めることで生きてきたのではないか。人を助けない自分を許せなくて自分が不利になろうとも敵に塩を送る。そんな美学は細々した塩の値ではなく、その美学そのものの値を重視したものである。
僕たち現代人はいつまでも細々と値を分けているようではいつか生まれた瞬間から死ぬ瞬間までその細々とした値を変えるために生きることになる。
その悲しさを僕はいつも値にならない感情で捉え、いつまで経っても言葉にならないドロドロとした液体のような観念のまま置いている。それが言葉となり、値となるとき、僕という人間の値は決まる。
全体性を失っていく現代の中、僕たちに残されたのは値を上げることではなく、値そのものの符号を変えることなのではないだろうか。

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