批評論のはじまり

批評するときには,その批評する対象が作品であり完全かつ不完全であること,つまり歴史の最前線でありながら中間でしかないことを理解しながら向かいつつ,自分もまたそのようなものをそこに提供せねばならないことを考えなければならない。
簡単にいうならば,作品とは独立的かつ歴史的なのである。

批評ということがあまり浸透していない印象のある現代において,それを考えるということは評価という仮の権力への反抗になると思われる。
なぜなら、彼らは評価ということが自分の立場を背負うことであると信じていないし,それを上手に行えていると信じてやまないからである。
評価というのは自分の立場を背負うことである。もちろんその立場は変わりゆくものであるとは思うが,彼ら(批評家気取り)はそのことを理論的な盾として,それこそ感情を理論的な盾として意味のない議論を繰り広げてしまう危険性に気づかないふりをしているのである。
批評するというのは評価するのに加えて信念を点検するということである。
目の前にある作品がある。それを批評するというのはそれを評価するということだけではもちろんなく,それを仔細に読み解くことでそこに映る自分に問い詰めるということである。
それはまた「愛」と呼ばれるようなものであり,最も優れていると思われるような批評というのは愛そのものなのである。
しかし、愛ということを自己承認の一部としてしか捉えられぬ愚かな人々は批評など不可能であり,できたとしても個人的な感想にとどまるか,それとも仔細な研究にとどまるかになる。
もちろん私はその仔細な研究というものを蔑ろにする気はないし,尊敬するのであるが,私はそこに「批評」という言葉を使うことはできないのである。
小林秀雄が言うように批評というのは作品が人に見えてくるということである。
小林秀雄は論理性に欠けている。という批判が当たっていないと弁護できるほど小林秀雄にも小林秀雄が読んだ作品にも詳しくないが,その批判者たちのいう「論理性」ということがとても矮小なものであるということは言わなければならない。
私たちは作品を批評するとき,その作品を評価するのではなくて,その作品に喚起された自分を評価するのである。
そういう意識のない批評というものは評価と呼ぶべきであり、それは査定とまでは言わないまでも,そのような性質に囲われた不自由そのものである。
私たちは往々にして自由に語りたいという思いに駆られるのであるが,評価に拘泥する彼らはそのことを忘れてしまっているのである。
自由でない文章を書くことは意味のないことでさえない。意味ということを理解していないのである。
私は珍しく明確に嫌悪感を示しているわけであるが,これは誰に向けたものなのだろうか。
それは学びもせず批評できていると思ってる人々に対してである。
もっと詳しく言えば,批評しながら批評について考えない愚か者に対してである。
そして私がそのようになっていないかと考えればそれこそ恐怖するのであれば,この恐怖というのが批評を批評にするのであり,それがなければ自由としての不自由が,つまり自由という不自由が彼ら,私を襲うのである。

批評論
批評と評価
作品と自己

こんなことが考えられるのであれば,私の批評論なるものは一応世界を得るわけであるが,それはどのようなものであるか、と言えば,私にはあまりわからないのである。
しかし、私には嫌悪感を示す批評家気取りが存在するということは間違えようのない事実である。
それが私の表現不足を嘆く仕方であるか,それとも別に自分を否定する何かに対する恐れであるか,それは今はわからない。
しかし、批評ということが私の心を捉えて離さない以上はこのことを問い続けるしかない。
自己批評のないものに批評はなせない。
そんなことは当たり前だ。
批評するならまず自分を批評して自分を作品として見ることを始めよ。
それこそが批評論の始まりであるべきなのである。

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