メタゲームをしまくる私

『暇と退屈の倫理学』を読んでいる最中である。
内容に関することはまた後日書いたものを出すので読んでほしい。新たな取り組みもしているので。

まあ、それが触発となって、私は自分の「暇つぶし」について考えようと思った。
眠いので端的に素早く書くことにしよう。
私は「暇つぶし」が嫌いである。「気晴らし」は好きだが。その違いは「暇」があるかどうかである。「気晴らし」は「退屈」と近い関係にありそうだが、「暇つぶし」はより「暇」に近そうである。
たとえば、こんなこと。

と、言っても、私はあまり「退屈」もしないし、「気晴らし」をすると言っても、いわゆる「気晴らし」というよりは、なんというか、より実験的な「気晴らし」をしているような気がする。
今日もまた新しいことを考えてしてみた。面白かったが、うまく行ったかどうかは微妙である。
その新しいことというのが後日出る。それは楽しみにしてほしい。ちなみに、序章だけ読んで真剣に考えてから本文を読むというものである。しかも序章から勝手に色々とトピックを広げる自分勝手な感想文みたいなものを書くことで打ちのめされようというふざけたものである。けれど、とても力強く、真理に近いものであったと思う。何が面白くなかったのか、私にはわからないが、面白くはなかったのだが。いや、面白かったのだが。よくわからない取り組みだったのである。
最近読んだ『メイキング・オブ・勉強の哲学』に「メタゲームを作る」ということが書いてあった。言い換えれば「自分で作ったルールでゲームをする」というものである。
私はそれをするのが好きであるし、特に好みのものは何回もしているような気がする。
たとえば、私は部屋の中でも星空が見えると思っている。プラネタリウムの機械などがなくても。天井を見上げると、真っ暗にして、部屋を真っ暗にして、寝る前、まさに今、こういうときに上を見る。
おそらく今、外の空は曇っているが、中の空、この部屋の空は曇らない。なぜなら遮られているからである。曇れないのである。
そこに見る。私は星をそこに見る。
これもまた「メタゲーム」である。純粋であればあるほど、なんというか、気分が純粋であればあるほど、星空は鮮明に見える。今日は眠いから全然見えない。天井、って感じである。
空を表す言葉に「天蓋」というものがあることをユルスナールの『東方奇譚』で知った記憶がある。
まさに今、空は天蓋である。外に出ても、部屋の中にいるような、昔の人ももしかすると、私と同じようなことをしていたのではないだろうか。
そうなるとプラネタリウムはなんなのだろうか。わざとらしいような気もする。

と、こんな感じで、私はよく連想ゲームで遊んでいる。
私が一番よくする「メタゲーム」は連想をどれだけ豊かに展開できるか、というゲームである。その「豊かに展開できる」というのは、読んだ人もまた同じように浮遊感や沈澱感、なんというか、身体が何かに包まれるような、興奮とかではなく、静かなよくわからなさに包まれるような、そんな体験を作り出すことを言う。
だから簡単に言えば、詩を作ることが私にとって最たる「メタゲーム」なのである。
私はそれが基本的にあって、それを基本的にしていて、「暇だなあ」と思うことがあまりない。なぜなら、「いま、ここ」の私は今ここにしか存在し得ないからである。
『暇と退屈の倫理学』の五章まで読んできた私、買うつもりじゃなかったのに『哲学トレーニングブック』を買ってしまった私、眼鏡を買ってかけて酔った私、関係ない私もたくさん周りにいるけれど、今の私は一瞬しかいない。だからその一瞬一瞬である私をもっと、強く引き出す。それが私がしている「気晴らし」である。
たしかに、ふとした瞬間に「どうやって生きたってなあ。」って思うけれど、それは安らぎでもあるような気がする。別に私は何も背負わない人間だけれど、そんな気がする。
なんの話かわからないが、眠くなるといつもと同じ話をしてしまうような気がする。でもこれが意外なのだが、酔っていて峠を越すと、違う話ができるようになる。
「酔ってしかできない話で熱い話なんてねえよ。」というのは同意するが、眠くて酔っていて、より本能的というか、計画的ではないというか、演技的ではあるけれど、普段の演技からは遠いというか、そういう時は面白い話ができる、ような気がする。
まあ、飲み会なんて親しい人としかしたくないし、それをしたいと思う人は両手の指で足りるくらいしかいない。
あ、今日、手をワカメみたいにして、いや、指をワカメみたいにして、手は海全体、うにょうにょと空気を感じるという遊びをしてみたのだが、とても面白かった。
なんというか、ダンスの本質はこんなことなのかなあ、とも思った。
と、私はこのように、一つの事柄から形而上学的な真実を取り出そうとする傾向がある。
もう眠いから寝る。
これもまた壮大な比喩の可能性がある。それを探すこともまた「メタゲーム」。私が大好きなそれなのである。
ねむ。ねよ。

江戸時代からの秘伝の「たれ」を今も継ぎ足しながら使っている。そんな「うなぎ屋の甕」をみたことがある。覗き込むと、なかに充ちているのは時間そのもののようだ。
『ぼくの短歌ノート』163ページ

夜を覗き込んだら寝てしまうんだろうなあ。永遠に生きられる人はいないのだから。

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