ある日記のある部分

AはBを隠している。そう断言できる人は誰でしょうか。それは明らかに他者であり、そのときにやっと私も私となります。断言によって他者と私はそれとそれになるのです。

一日とか、一週間とか、春とか秋とか、一年とか、そういう区切りで死は、死神は、私のもとを訪れます。人間が決めたものでしかないそこに。しかしおそらく一番どうでも良い区別、一週間の区切りに死神は死を携えて訪れます。それが死の真実です。私はそういう確信があります。あることをしてから。

おそらくだけれど、私の書いているものはどれくらい緩やかになっていてもつながっている。これは私にとっては願いであり、大抵の人にとっては当たり前のことであり、いくばくかの人にとっては目指すべきことであろう。

私は忘れてしまうのです。私が感じた美しさ、素敵さ、静かさ、寂しさ、それらを。それを残すにしても私はかすかな詩しか覚えていられません。しかし、それでいいですし、それこそが真実なのです。私にとっては。

「反問しない」とすら言わない/言えないような非-反問性をどう獲得するか。

一年にいくつかは素敵な詩が書きたい。一年の目標というのはそれくらいのものである。

詩を読んでいてどうも読みきれないという感じがするとき、私は思います。「ごめんねえ。気分じゃなかったねん。」と。どちらも悪くないし、仮に悪いのだとしたらどちらも悪い。そんなふうに思って、思えるように。

いつも感じられる人。そういう人がプロなんですよ。私はアマチュア。


私は毎週日曜日、「日記」というマガジンに文章を投稿しています。そこにあるのは別に何でもない文章で、たまに一つのまとまりとしてちゃんと「文章」になっているものもあります。そういう適当な感じで書いているのですが、なんだか素敵な部分を見つけたのでそこだけ切り取って投稿してみようと思いました。こういうことをするのもたまにはいいかもしれません。ちなみにこの文章は今日書いたもので、時間帯で言えば夕方から夜にかけての文章です。私はもう少し私の日記を読んでほしいものですね。頻度とか濃度とか、ね。では。

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