我が家の一風景に関する一デッサン

カミはいつもそばに
とか言ったら中2病扱い

『WATASHI』

 これは私の好きな歌詞である。カットインの仕方込みで好きなので是非聴いてくれたら嬉しい。のだが、別に聴かなくてもいい。今日はその話ではない。
 私はさっき、リビングでこの歌詞を歌った。一段目を強調して。二段目も歌ったのだが、おそらく聞こえていないと思われる。我が家はみんなこんなふうに歌っている家であり、イヤホンを外しさえすれば、そして人が居さえすれば、時折歌が聞こえてくる。だから別に、急に歌が聞こえてきてもびっくりしないだろう。しかし、ここで問題なのは歌詞の内容である。いや、突然この歌詞が聞こえてくるということである。
 偶然誰も居なかったので何も起きなかったが、誰かいたら、そしてたまたま私が歌った歌詞を聞き取れていたら、おそらく、独特の視線を送られていただろう。なにせ、「カミはいつもそばに」であるから。もちろん、節回しがあるのでこのように聞こえることは少ないだろうが。
 ところで、これが問題であるというのは別にこのような信念が問題であるということではない。それが突然言われたことが問題なのである。簡潔に言えば、「どうしてわざわざそれを言ったの?」ということが問題になる。そういう信念を持っていても良いが、なぜここで、いま、言ったの?ということが問題になる。
 このことを考えるにあたって、私は宗教への態度というか、そういうものを考えた。私は別にこのような歌詞が聞こえてきても、「ああ、歌詞だからねえ。」となる。しかし一瞬、どういう信念を持っているんだろう、と訝しく思うように思われる。いや、訝しくというか、なんだか不思議な気分になるように思われる。独特の視線を送るように思われる。
 これは不意に思われることであるからこのように書いてしまえば、私の考えたかったことは失われる。歌詞であるとしても生活に染み込んでいるなら聞こえないのである。その意味で信念というのは不思議なものであるように思われる。それを表明すると「なんでわざわざ言うの?」となるような信念。そうならないものはもはや信念とは呼べないかもしれない。
 しかし、なんというか、盛り上がりに欠ける。議論として。これが議論として迫り上がってこない、イマイチ盛り上がってこないのはおそらく、私の家では歌が聞こえるという生活が染み込んでいるからであるように思われる。例えば外でこの歌詞を歌ってしまえばおそらく、いや、でも、そういう、そういう種類の失敗として、ミスとして取られるだけだろう。
 何が言いたかったのだろうか。とりあえずこのような議論が『会話を哲学する』に惹起されたものであることは書き付しておきたい。まあ、まだ二章までしか読んでないときにこのようなことを思ったのだけれど。

 なんというか、もっと興味深い議論になる予定だったのだがなんだか、微妙な出来になってしまった。出さないことにしようかとも思ったが、この問題は結構面白い気がするので出しておく。時間の無駄になってしまったら申し訳ないが、ここから享楽できたらあなたは本物である。そう言っておこう。どうしてわざわざこんなことを言ったのだろうか。この問いはおそらくズレているがズレていないことにもできる。ズレていないことにできること、私はそれを発見し損ねたのかもしれない。
 これだけでは示唆すぎるので一つだけ。『会話を哲学する』の中で三木は「会話を通じて構築されていく話し手と聞き手のあいだの約束事という側面に関わるコミュニケーション」と「コミュニケーションを通じて話し手が聞き手に対しておこなおうと意図していることというマニピュレーション」を「しっかり区別して考えていこうと思っています」と述べている(『会話を哲学する』39-40頁)。このことを踏まえると、私がしようとしていたのはマニピュレーションなく歌っていただけの歌詞が偶然宗教っぽかったということによってマニピュレーションからもコミュニケーションからも浮いているという、不思議な現象、しかも別に会話ではないとは言いにくい(ここで違和感を感じる人は多いと思うが、少なくとも我が家では歌詞が聞こえるというのはみんながすべての歌詞を歌っているわけではない点で無意識の選択になっているという前提があるので少なくとも一種の会話ではあるように思われる。もちろん、三木も指摘しているように会話には相互性が必要でありそれがここなはないと言われればそうだが)という不思議な現象であることの不思議さの解明であったように思われる。しかも、宗教っぽいから「約束事」にも「意図」にも還元しにくいということがあって、結構独自の空間が我が家では開かれているということが書きたかったのかもしれない。もちろん上に述べたようにそもそも会話ではないと断ずることは容易であるが。しかし、独特の視線が一つの問いとして機能するとき、このように不思議さは実際現れているのであり、このことを強く取るなら受容という問題系に広げることはできるかもしれない。

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