『夢のような人』

2024/4/1「夢のような人」

私は夢に対して「現実みたいだった。」と思うことがあまりない。みんなはどうなのだろうか。私にはわからない。

この「わからない」は原理的なそれなのか、それとも原理的ではないそれなのか、私はわからない。

レトロスペクティヴの哲学。としての文学なり美学。

私は未来の私が読んで面白いものを書こうと思っている。が、ちゃんとそうできているだろうか。私は。

まるで石化するように、堰切って現れるような現実、その手触り、彫刻。沈黙。

私は醒めた私を連れていきたい。連れていかれたくはない。

醒めた私の標榜する探究というのは言うなれば「レトリカルな形式主義」と言えるような探究である。例えば、精神分析に特有のレトリックを見つける、みたいな探究である。そしてその歴史にある構造、その反復を見つける、みたいな探究である。

第一感が正しいのか、それとも何かに従ってそれを象るから「第一感が正しい」と言われるときの「第一感」が「正しい」ものとして作られるのか、みたいな探究である。

この「第一感が正しい」というテーゼはいま思いついたものであるが、こういう探究が「レトリカルな形式主義」の探究なのである。私が「すげえ、これがわかることがある。」と言っている横で「その『わかる』って『これ』が作っているんじゃないの?」と言うような私、それが醒めた私なのである。

スピリチュアルも私を賦活するなら別にいいのである。

自己紹介というのは「自己」というものを見つけることと決めることのせめぎ合いによって規定される。

「せめぎ合いによって規定される」というのはあくまで一つの規定の仕方もしくは理解である。

窓の外水垢模様草間彌生

私は「自己」の多面性ゆえに「自己紹介」ができないのではない。私は「自己」の共立性ゆえに「自己紹介」ができないのではない。というか別に、「自己紹介」はできる。

が、少し準備しよう。と、思ったが別に準備することなどない。得意でないことを得意であると言わなければいい。ただそれだけである。

語りというものの基本的な形式はマイナスからプラスorプラスからマイナスである。というか、もっと抽象化すれば、AからB(「から」は固定された価値判断の転換の演出)みたいなものが語りの基本的な形式である。おそらく。

川沿いのバス追いかける日水面撫で

私は横を一緒の速度で移動する何かが好きである。これはおそらく結構変わった快楽であり、それゆえに偏重しているところがある。

まあ、草間彌生にしては重力的すぎるか。

光食む緑幼児キュビズムの樹

どうでもよいような、例えば文体、それ、私はそれが気になる。

「生活」というのは「活かすを生きる」ことであり「生きるを活かす」ことである。

このことの典型的な例は「私はAという作品に強く影響を受けました。」というときの「影響」は様々な場面での「反復」によって作られているということである。

私はある作品に影響を受けているが、それは私がよく持つイメージと共鳴したりある歌詞「寝て見る夢 無限宇宙」という歌詞と共鳴したりしてその存在がくっきりかたどられていく。そういうことが「強い影響を受ける」ということなのである。

「世界観を作る」より「世界観を作らせる」。

どこかとどこかが反応して何かができる。

私は私の奥底にある、強張りのようなものを見つけた。見つけた。これが強張りなのか。

私は私を責め立てる、そのようなために哲学するわけではない。哲学してきたわけではない。私は私の享楽を信じるため、そのために哲学してきたのである。いや、信じるもなにも、それ以外のために哲学したことなどなかったのである。

私は私に強張りのない姿や責め立てない姿を見ていた。し、実際にはそうだっただろう。しかし、私はそうではなかったのである。というわけでもない。そんなに決めつけられることではない。

ナルシシズムの典型的な増幅。ここでのポイントは「増幅」よりもむしろ「典型的な」というところである。

私はよりよく生きたい。ただそれだけである。「よりよく」というのはある状態よりもよくということではない。ただ単に「よりよく生きたい」のである。

私は私の素直さが恐ろしい。そのように思っているのかもしれない。

身構えず、跪かず、ひたむきに。

ゆっくり生きるということはそれだけで素晴らしいことである。

私は私の性急さを諌めるとともにそれに感謝もしている。性急でなければ考え続けることはできず、性急であると考えることはできない。この二重のできなさの前にただ狼狽える。ただ狼狽える。それが考えることであり考え続けることである。

ああ、実践と急にリンクする。そんな可能性が見えた。ぴかり。

本当に書いて出してみよう。

 私は歩く。私は乗る。私は歩く。着く。そういうことをしていると、いや、そういうことがしばらく反復されるのだと思うとなんとなく、なんとなくこういう生活でしか書けないことがあるような、そんな気になる。
 この信念を支えるのは単純な思い込み、もしくは洞察である。それは「生活」と「読み書き」は連動しているという、そういう信念である。信念を支える信念というのも変な言い方だが、どちらも信念であることに変わりはない。だからそういう言い方をさせてもらおう。

 さて、私は最近「緩やかさ」みたいなテーマを考えることが多い。そのテーマと連動しているのは例えば「幸福」みたいなテーマである。「緩やかであるほど幸福だ。」みたいなことを単純に言えば思っている。し、このテーマに上で書いた信念、二つの信念は関わっているような気がする。
 ただ、その関わりはよくわからない。「緩やかさ」というのは複数化とメシアなきメシアニズム化の二つによって考えられるだろう。この二つは言うなれば二つの相対化である。しかし、その形式は空間と時間に分かれている。しかし、そのどちらでも絶対化が避けられている。相対化したいというよりも絶対化したくない、みたいなことである。ここにあるのは。これがおそらく関わり方である。
 眠たいのでもう書く気はない。寝たいので。しかし、「生活」と「読み書き」の独特の連動は私に上で述べたような相対化を促進する。それに私は乗っておきたいのである。私にとっても享楽だから。このことは心理学でも議論されている気がしたが知らない分野なのでキーワードだけ置いておこう。「時間選好」である。しかし、私はおそらくこのキーワードの意味では「緩やか」ではない。もちろん、「緩やか」ではないからそれを求める、というストーリーは分かりやすくもある。が、私はそれをある意味脱したからこのように書いているとも言えよう。ややこしくなりそうなのでこれくらいにしよう。毎日毎日書く。読む。眠たいと思いながらも受容する。疲れているからこそできる受容もできたらする。表現する。そういう訓練によってやっと、やっと生活を楽しめるような、そんな気がするのだ。私は他人にこの訓練を強制することはない。しかし、案外楽しそうだ、くらいは思わせられたら嬉しい。

2024/4/2「かんかん帽のガンガン坊主」

「存在まるごとの肯定」みたいなキーワードがある。が、「肯定」するなら「存在まるごと」はあり得ないと思う。が、なぜこのように思うのかが気になる。ナルシシズムの問題というか、再帰性の問題というか、そういう問題がある気がする。

「存在まるごとの受容」みたいなのも同じである。が、「肯定」より「受容」のほうが「存在まるごと」の願意はわかりやすい気がする。

平面を開く。別の平面を。別の比較を開発する。そしてそれを使い果たす。

Aは実用的か?という問いはよくわからない。何か一つ、ぐらぐらゆらゆら、そうなっているせいで問いがそもそも理解できないのである。

「実践にどうやって役に立つの?」というのは「実用的か否か」を問う典型的な問いだと考えられているが本当にそうだろうか。その接続は仕向けられたものなのではないだろうか。

そうそう、いまはまだ、いまはまだ誰かの顔を立てるために疑問を仕立てているみたいなところがある。私には。もちろんそれでもいいし、もしかするとみんなそうなのかもしれないが。

限定肯定にも無限定肯定にも「肯定」のそもそもの性質ゆえの二重性が存在する。し、そもそも言語には「限定/無限定」を生み出す構造がある気がするので「限定肯定/無限定肯定」の理解には二重の二重性がある気がする。気がするだけだし、構造もある気がするだけなのだが。

問題類型的な主題、例えば「無限/有限」とか、そういうもの。それを集めてみたい。

振る舞いとしてしかわからない人と振る舞いとしてはわからない人、そのあいだに私たちは存在する。「私たち」は存在する。

縦軸横軸、奥行き軸。軸を付与していく思考の深み。

どうせ君にしかない表現があるんだからどうせならそれしなよ。みたいに思う。これが欺瞞でもそうしたらいい、そう思う。

疲れずに眠たくなる。そういうリズムを作りたい。生きていきたい。

空になる。殻になる。

自信があるというのはほとんど判断の複雑さがないということである。

私は私の詐欺師の才能と詐欺師の才能のなさに驚いている。割といつも。

ゲーム化する。それがポイントである。ゲーム化するゲームをすると言ってもよい。が、その一つのメタ-化は節制されるべきである。このことはとても重要なことである。要は危険なのである。その行為は。

一番になりたい。君はそう言う。なぜなのだろうか。私にはわからない。私は比べるまでもなく一番だからである。というか一つしかないから一番とかそうでないとか、そんなことはない。

これは真実であるがいかんせん、いかんせんやる気を削ぐ。やる気が出ない。

ナルシシズムについて考えてみよう。まずはフレックス。(ちなみに「フレックス」の意味は知らない。なんとなくで使っている。)

私は私の作品が好きである。たしかにそれはナルシシズムである。が、それとは違う面もあるように思われる。もちろん、自己否認だとか言われればそうでないとは到底言えないのであるが。

でも、「自己否認だ」とか言われてもなあ。たしかにこの判定を下すには時間がかかるし結構達人技も必要になるだろう。しかし、私が言いたいのはそういうことではない。

おそらく再帰的なあり方に対する違和感のようなものである。いや、再帰性の主要な解釈に対する違和感と言ってもいいかもしれない。

なんというか、「自己」(≒「個人」)にも「無意識」(≒「反復」)にも実感が湧かないし湧きそうもないのである。

「何を根拠にそんなことを言うのか?」という問いは結局たらい回しに合うだけである。もしそうでないとするなら、それは遅さゆえに、速さゆえにそうなるだけである。

ただ、別にそのことが悪いことであるとは思わない。というか、思えない。言語を使う以上、理由を言う以上、理由を作る以上、そうなることは仕方ない。正当化というのは「理由をつける」ことなのであるから。

なんというか、理由というのはすべて嘘でもあるのである。しかし、とりあえず本当という対比項を作ることで嘘を嘘たらしめているのである。私たちは。

しかし、それは良いことでも悪いことでもない。ただそうであるだけである。

「ただそうであるだけである。」というのはいい心構えだ。身構えだ。

相手の立場になって考える、がやっとできるようになってきた。やっと。なんというか、ここで重要なのは「立場」である。「相手になって考える」は不可能だと、そして妥協するのだといって「立場」だと、そういう意味での重要さ。

主題化する/主題化せざるをえない、主題化せざるをえない(周りがそうさせる/言語がそうさせる)

対比の発見と主題の発言はおそらく、厳密には同時である。「言う」と「聞く」や「書く」と「読む」がずれているからずれているように見えるとしても。

切り取られて捨てられたか置かれたか、そうされたところが重要である。ただ単に全体を指示したらそれが一部になったということはあるにしても。というか、それは確実にあるのだが。

2024/4/3「肘触る、キリがなく」

概念的人物というのは一つの防衛であり一つの享楽である。防衛と享楽はpairingしている。

やんわな人物。私はおそらくそういう人物。であるふりをしている。

私たちは「ふり」に自らを合わせるし、自らに合わせて「ふり」を作る。と思っている。こういうゆらゆらした揺らぎの許し。どちらかの適合の性急さ、それへの気づきと疑い。「どうしてそんなに性急なの?」という疑いとその理由。

何かを見て「Aみたいだ」と思ったとするとそのAと何かを対比して、その上で比較なりなんなりをする必要がある。ここでは「思う」→「対比する」→「比較する」というプロセスがある。ここで理解ということに不可欠なのは実際どれだろうか。

私は極めて特殊な理解以外は「対比する」であるように思われる。そしてその「対比する」の根底にあるのは「主題」である。しかし、「根底にある」というのは時間的に先んじているということではない。「主題」と「対比」は同時に生まれるのである。むしろ、「対比」を細かくみると「主題」が現れてくる。そんな感じがある。

雨の日のバスを流れるカンディンスキー

そう。私は季語を知らないから一つ重なりを損じているのである。それゆえに身体がなく、それゆえに掴みづらいのである。しかし、私は不思議なのだが、暗誦性は高いからそれはそれで良い詩なのである。

プレイリストを回っているときにスキップする。死ぬ。そんなことをしていたらすぐ死んでしまう。私が選んだプレイリストですらそうなのだから、いわんや……

「よく生きる」、これほどまでに単純なことはあるだろうか。私はこの単純さにある意味では恐れをなして、ある意味では勇気を持って、「素敵に生きる」という解釈をおこなった。そしてそれを信じた。

多層性と身体。結構重要なテーマ。身体はまたぐ。

すげえ人が「すげえ」と言っている人をすげえ人よりもすげえと思う必要はない。し、思えない。おそらく。「すげえ」というのはある意味で無限であり無限の切断である。

容量を増やす。それがやるべきことだ。もちろん、容量を効率よく使うというのは駆動させる必要がある。し、その駆動を抑止する必要はまったくない。

私はバスが好きだ。なぜかはわからない。遺伝子の乗り物のアナロジーなのかもしれない。そしてアナロジーゆえの身体性の獲得が好きなのかもしれない。地盤と言ってもいいが身体と言っているのはこのアナロジーそのものが駆動する可能性、享楽する可能性を信じているからである。

「評価する」ということ。私は誰も評価しないがそれゆえに万人を評価する。

うん。雨の日は一緒にずっと、ずっとバスに乗っていたいね。一緒に。

面影の思い交差せよおもむろに

心の樹風が光ると葉が光る

まあ、葉が光ると風が光る、でもいいけれども。

詩というのは一つの力。現実に、そしてそのつまらなさに力を与えるのが詩である。

ただ、カンディンスキーにしては一方向的すぎるなあ。まあ、バスの前が前そのものに変わればいいだけだけれど。

素敵に生きる。これはまったくの根本にある。

私は私の多面性を反照的な身体性によって発見する。これは実はおそらく、かなり同時的な発見でありむしろ反照的な身体性が多面性によって発見されるということであるとも言える。し、実際にそうだろうと思う。

透かし見る、それが掴むことを可能にするのだ。なんでも。

黒猫の中に宿する梅雨のとき

空気吸うペットボトル2L

大きなペットボトルのお茶をごくんごくん飲んでいると、ペットボトルがぐわんぐわん萎んだり戻ったりする、ので空気を大きな肺で吸っているみたいだ。

単純化するのはどうして楽しいか。それを楽しむためには複雑化すること、いや、複雑であることを明瞭に掴む必要がある。

単純であることの楽しさ、それはなんだろう。なんというか、私は「股にかける」嬉しさを感じることはあるがそれ以外はよくわからない。

特別な理由に頼らず、元も子もない理由を直視する。原因を直視するとも言えよう。理由/原因をうまく用いるなら。用いることができるなら。

どうしてなのか。どうしてなのか。わからない。原因は何か。わからない。複雑すぎて。とりあえず何かで納得する。それが私にできるだろうか。

元も子もないことを言えば、私はすんごく体力がない。し、他の人は知らないが疲れているときは考えることができない。受容と表現、読むと書く、聞くと話す、それができない。循環させられない。爽やかに、そして穏やかに。しかし、これはどうしようもない。このどうしようもなさと他のどうしょうもなさをどう抱き合わせるか。それが問題である。

「元も子もない」というのは問題にすらできないということである。もちろん、多少は疲れにくくなれるし、多少は循環できなさ、どろどろした停滞を誤魔化すことはできる。しかし、それがちゃんと機能するのは結局たまたまであるし、それは抱き合わせがたまたまうまくいったということにほかならない。

私はずる賢さに、そしておそらくその奥にある人間の希求に苦手意識がある。

元気なときの考え事と疲れているときの考え事はどう違うのだろうか。これはかなり難問だ。どう難問かというと、これを明らかにする術がかなり計画的にならないとないという意味で難問である。

「同じだ」というのは「異なる」の上に成り立つ。「異なる」というのが「同じだ」の上に成り立つのとは違う仕方で。

端的に「異なる」ことも端的に「同じである」こともない。

2024/4/4「しゃんじゃんだ」

死ぬくらいなら逃げたらいい。と、言う。本当にそうか?死ねばいいんじゃないか?と思うのはそのように言う人からは否定されているのか。それともされていないのか。されているのだとすればそれをわざわざ言う必要がない。されていないのならそれを言うことによって逃げない人は死んだ方がいいんだというような思いを起こさせる。言い換えれば、死ぬということがテーマになる。どちらにせよわざわざ言うことは逆説的に死ぬことを意識させるのではないだろうか。その意識によって死ぬのは嫌だと思える人だけが冒頭の言葉を言われることができる。これが限界である。

ひまわり。ずっと太陽の方を向いている。どうしてだろう。わからない。だけどなんだか、敬虔な気がする。

ひのひかり。ぬくいし、てらしてくれる。

ひまわり。日が回っていることを教えてくれる。ずっとそばにいないとわからないけど。

その時々に響く、そんな詩歌がある。それをどれだけ知っているかによってどれくらい、どのように生きるかは変わる。私の場合は少なくともそうである。気がする。

そうであってほしい、気もする。

なんというか、まだ豊かに読める、というのは希望である。まだ豊かに受容できる、とか、そういうこと。それは希望である。しかし、ある意味ではしがらみであるだろう。

「それが本当の理由か?」と言われてもわからない。理由なんてものはぐるぐる回っている。それが止まるのはそのぐるぐるが循環になるか、それとも何か不条理によって途切れるか、それによってだけである。どちらにも逆襲は準備されている。循環は途切れ、途切れは繋がれ、そういう逆襲がある。

私は待つしかないのかもしれない。生きるためには。私が騙されるのを。いまは「騙される」としか言えないようなそれをそう言わなくなるのを。

行ってしまった。君があちらに。あちらに行ってしまった。私は堪えなくてはならないのだ。何とともに?何とともに?

共起と共立は違う。

「どうして泣いているの?」なんて言われてもわからない。通用する理由も通用しなくても思っていること、理由もわからない。ただ単に泣いているのである。

そうか。享楽だったのか。私を守ってくれたのは。

哲学はデカルトがしていたようにやはり、やはり悪霊との闘いである。

私の考え事には隠れたる父が居る。そんな気がする。

今日初めて、「哲学しててよかった」ではなく「哲学してしまっていた」と思った。気がする。

そして初めてちゃんと自己批判しようとしている。気がする。

もちろん、すべての問題は私にある。責任ではなく問題。

記憶術のための人物伝。

共起。共立。想起。同一。

たしかに。私は思い出しているふりをしているとも言えよう。しかし、真実にそうなのだから仕方がない。仕方がないのである。

彼ら、哲学者たちはなぜ哲学せざるをえなかったか。私にはわからない。そう思っていた。し、思っている。しかし、現実と向き合わなくてはならなくなったとき、そのとき私は結局哲学する。

世界の隙間から、世界の隙間から流れる、そう、それがやはり涙なのである。ただの水ではない、涙。それがそれなのだ。

私は独我論によってやっと、やっと愛の伝えられなさを知ったのである。

「〜の可能性がある」ということの判断。それは判断なのか?実は決断なのではないか?

私のリズムの中にはもはや、もはや引き延ばしが存在しない。ただ引き伸ばされるのは疲労だけである。

私はどうも、根本の部分で社会的ではない。いや、社会的ではあるが「社会的だ」と言われるようなそれではない。つまり、社会的に社会的ではないのである。

いやはや、なにゆえに私は社会的ではないのか。

ここでは大きく分けて二つの問い方があるだろう。一つは「社会的である」を定義する仕方。もう一つは私の特質に理由を求める仕方。どちらでもいいが、書くときは、伝えるときは結局後者に吸収される。大抵。まあ、こう思うこと自体が理由なのかもしれないが。

お布団に来て、私を包んで寝ておくれ。私はやっと、やっと安心と不安の対比を知ることができるのだ。あなたという安心のもとで。

私は絶望しいなのである。いらんことしいであるかどうかはわからない。

問いが面白いかより素敵かを考える私はもとより、ビガティックなのである。

絡まっているのは環境のせいだが絡まる可能性を作るのは私である。が、別に私のせいではない。ただ単に私であるだけである。

つべこべ言わずやれ、というのはその通りなのだが、「つべこべ言わない」と「生きる」が相反しない人の論理である。それは。

2024/4/6「それだけは真実」

私が独我論について勉強しているとき、そしてかなり実感を持っていたとき、私はそれを後輩に話した。その後輩は言った。「寂しいですねえ。」と。いまやっと、その意味がわかってきた。し、繋がろうという、そういう気持ちも湧いてきた。

なんだか冷めちゃう。そんなときがある。それが実は防衛なのか、それとも本当にただ単に冷めちゃうのか、それはよくわからない。

それはさすがにフェベラルでしょう。

この「フェベラル」というものには意味がない。何かの代わりに使おうとしたわけでもない。だから一生使わないかもしれない。し、使うようになるかもしれない。

私が永井均の哲学から学んだのはおそらく「幼さ」からの脱却である。『なぜ意識は実在しないのか』の改訂版を読んでいてそう思った。そして、おそらくそれは元来持っていた資質の一つの開花である。

永井均の哲学はときに「子どもの哲学」と言われるときがある。しかし、それが幼くはないのは構造の描き出しという手法ゆえである。「子ども」というのはその構造の描き出しをより仔細にしていくことを指しているのである。幼さはそれを放棄してその構造を生み出すことだけ続けることである。

そりゃあ、つまらないものには費用対効果を考えるよ。そりゃあ、ねえ。

私は他人を憎まない。システムを憎む。憎むとすれば、だが。

君はいざ、私の元に来たまえ。仕方のないことがあると教えてやろう。努力でも才能でもどうにもならない、そういうことがあると教えてやろう。とは思っていない。私は教えることに興味がない。何に興味があるのか、それはわからない。もしかすると、教えるに興味がある可能性もある。私は「賦活」に興味があるんじゃないか、と、「享楽」に興味があるんじゃないかと、そう思っている。が、それが正しいかどうかはそこでのエネルギーにかかっている。

私はときたま「AはBであるがCでもある」みたいなことを「AはBであるが、そうであるがCでもある」みたいに書くことがある。実質的には内容はあまり変わらない。変わるとしても「AはBである」という判断を「そう」と呼んでいるのか、それとも「A」に対する「Bである」という判断に並列されうるものとして「Cである」が存在するとしているのか、くらいである。と、書いてみて思ったが、前者の意味を強調しているのかもしれない。

多くの疑問のぼんやりとした存在。それをとりあえずそのまま抱えておくこと。それが重要なのである。

LoFtの紙袋を足に挟み私はズボンの紐を固く結び直していた。青信号になった。私はまだ結び終わっていなかったがとりあえず歩き出そうとした。しかし、ふと思った。なぜ、なぜ私は歩き出さなくてはならないのか?と。私は思った。青信号というのは「渡ってもよい」ということ、すごく強調して言えば「渡らなくてもいい」ということなのだ。と、赤信号が「渡ってはいけない」のに比してこの、緩やかな促し、もしくは権力。乃木坂46に「きっかけ」という歌があり、私はそのFirst Takeバージョンを愛聴しているが、そこにこんな歌詞がある。「交差点の途中で不安になる、あの信号いつまで青い色なんだろう」。私はそう思ったのだろうか。「決心のきっかけは理屈ではなくて、いつだってこの胸の衝動から始まる」。そうだろうか。「流れてしまうこと、抵抗しながら、生きるとは選択肢たった一つを選ぶこと」。本当に、本当にそうだろうか。別に答えを言う気もないし、言える気もしないが、なんとなく共に考える力にはなるかもしれないと思った。私と「きっかけ」が。

「癒される」と「癒されることができる」。

私には絶望癖がある。

2024/4/7「結局そうなんすよ」

そう。私は結局、結局「闘い」が嫌いなのである。いや、もっと精確に言うとすれば、「闘い」の中にある同一性の在り方が嫌いなのである。では、嫌いじゃない同一性があるかと言われると、それはそれで難しい。あらざるを得ないもの、としての同一性は別に好きでも嫌いでもないからである。

形式主義とリズム主義はどのように異なるのだろうか。

私は私の絶望癖から「絶望」について考えてみたい。何のために?そう、それが絶望のもとなのかもしれない。

ここでは二つの解釈がある。意味を求めることを絶望のもとであると考えること、そしてそもそも考えることが大抵目的的であることを絶望のもとであると考えること。この二つの解釈が、ある。

まあ、そもそも論を言うと、別にそこまで生きたいと思っていない、というのが大きい気もする。もちろん、私はこの気持ちのようなものをある種の演技だとも思う。し、この演技感が大元にあるのかもしれない。

私は努力が嫌いである。が、それは努力のある側面が、そしてその側面の強調が、そしてその強調が通奏低音になっているのが嫌いなのである。

私は焚きつけるのが嫌いだ。し、おそらくそれは焚きつけられるのが嫌いだからである。

もう少し抽象的に言えば、エネルギー源を決められるのが嫌いなのである。

この嫌悪感はおそらく生きることへのこだわりのなさというか、エネルギーが自給されている気がしないなあ、と思うことの多さというか、そういうことがあるように思われる。

死生観も関わっているかもしれない。

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