私はこういう書き方しかできない/こういう書き方しかできないのが私だ

 私には考えるべきことがない。考えているとあれよこれよと進んでゆき、誰かが私に囁く。

これ、まとめといて。

 と。それはきっと未来の私の使いが言っているのであり、私は私の快楽をとりあえずひと段落させようとする。したくもないのに。
 私はこのように書くということをおそらくは何年もしている。このように思うのは、私がこれ以外で書く場合にかなり強い違和感を感じるからである。それがあって、最近は一つ、おそらく周りから見れば失敗と言われそうなことを引き起こした。いや、今も引き起こしているのだが、僕はあまりにそれに無頓着であり、面倒くさいなあと言うばかりで、その原因追及をなそうとするというつもりがまるでない。
 私のこの無関心。私はかなりのことに無関心であり、関心があるというよりもむしろ、関心があったことを発見するだけであり、なんとなく選び、なんとなく享楽し、頑張って発見したことをそれとして際立たせる。これが、繰り返しになるが私のスタイルであり、特に彫琢しようとしたわけでもなく、ただ単にそういう仕方しかできない。その仕方のバリエーションは増えようとも、そうとしかできない。
 と、書いたところで、私は私の嘘にだけは誠実に本当であるから、最後の文章、一つ前の段落の最後の文章は少し踏み込んだというか、嘘が混じっているというか、そういうことに気がつく。バリエーションというのはその元となる、なんというか、オリジナルと言えばよいのだろうか、それを生み出すことと同じことであり、それに先後関係はないし、当然上下関係もない。ただ単に人間が理解しやすいのがそれらをつけた関係の理解であるだけであり、そのことを忘れていることを忘れている人に、もう少し言えば、それを忘れさせようと、私はしたのである。私は私のつく嘘を暴くことはできる。し、好きである。ような気がする。ただ、他人にそれが面白いかはわからない。
 ゼミの教授に次のことを聞かれた。

君は誰のために書いているのですか?

 と。私の答えは端的に言えば、別に誰のためにも書いていないというものであったが、とりあえず問いのフォーマットには則って、おそらく自分ですね、未来の自分、とだけ答えておいた。しかし、というよりも方法として、手法として、私は読者のことを意識している。未来の自分以外の読者のことを。
 しかし、私はそれを、なんというか、手癖としてしてしまうだけで、そんなことをしなくても良いのなら、私は私にだけわかるかもしれないものを書く。書きたいのではなく書く。書いているのである。私には他人に理解してほしいということがよくわからない。まあ、話すのは楽しいが、ただの音の交換。交感にすぎない。と言うと、まるで私がそれを否定したり批判したりしているように見えるかもしれないが、別にそういうわけではない。それにすぎないということを強調したいだけである。というのは嘘である。
 私には大学の時に出会った親友(?)がいる。私はその親友とよくこの、交感をする。その親友とは別の親友はこのように言う。私とその親友の会話を。

会話してるふりしてるけど、してるのは音のこうかんだよね。

 と言った。ここでの「こうかん」が「交換」なのか、それとも「交感」なのか、私はよくわからないし、このよくわからなさはいま初めて気がついたのだが、とりあえず私はそういう会話をしているらしい。し、自分でもそう思う。他の友達には次のように言われた。

お前と話していると真剣な話をしようという気がなくなる。

 これはもしかすると批判なのかもしれないが、おそらく、おそらくだがそうではない。私は歳も歳なので、と言っても二十代前半だが、まあ、そういう時に大事な話もあるのだが、とりあえず大事そうな話が私たちにもあるわけだが、私たちはいつもつまらない話ばかりしている。しかも、そのつまらなさというのは夢や希望、悲しみや絶望に関するそれではなく、ただ単に交感的なそれであるということである。私はそういうことしかできない。
 これはもしかすると、私の独我論的傾向に由来するそれなのかもしれない。まるで会話のように会話してしまうと、そこでのずれがこわくなったり、いやになったり、そういうことになってしまうことを予見していて、このようになってしまうのかもしれない。「それは言い訳ではないか」というつまらない私の自問があったが、それは無視する。というか、それであったとしてなんなのか、そもそもそれであるとはどういうことかがよくわからない、と答えておきたい。
 ある本のあるレビューでこんなことが書いてあった。意訳というか、あんまり覚えていないが、こういうことが書いてあった。と書きながら、実はあんまり覚えていないのでいま書く。

私たちは会話をしているように見えて実は何も話していないのではないか、という著者の最後の指摘はおそろしくも、そして希望であるかのようにも思えた。

 私はこのレビューを読んで、そもそもそんなことが書いてあったら私が覚えていないはずがないだろう、としか思わなかった。私もそのある本を読んでいたからである。しかも結構直近で。ただ、いま思い出すと、なんというか、当然すぎたのかもしれない。当然すぎることは引っかかることもなく、私の、いや、そんなこともなく、ただ単に過ぎ去ってゆく。私は私の構造的な才覚によって多くのことを失っているのかもしれない。
 私はおそらく、構造的に理解するのがかなりはやい。なぜか知らないが。そのせいで覚えていないのかもしれない。

 とか、つまらない話をしだしたので今日は終えよう。さて、一周だけ読み直して、『急に具合が悪くなる』という本を読もう。
 さて、一つだけ、一周して気がついたことを書き添えておこう。私は少なくとも三つ嘘をついていて、一つ、決定的なミスを、している。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?