ある人の問いにある人が応えた/答えた

noteでちゃんすという名前の方が問いを100個書かれていて面白そうな問いがあったのでできるだけ手短に答えてみたい。(「ちゃんすという名前の方が」というもってまわった言い方をしているのは「ちゃんすさんが」と言うと「ちゃんす」さんなのか、「ちゃんすさん」なのか、知り合いなのか、という問いが頭に浮かぶと思ったからです。)

ちゃんすさんの記事
https://note.com/chances_sph/n/n5fdd308fdf4e?sub_rt=share_pw&d=s5tbPkoRLXAi

ちゃんすさんは問いをナンバリングされている。ただ、51からはもう一度1から始まっているので私はそこから51としたい。これで気を悪くされたら申し訳ない。指摘されたら修正します。

前提として言っておきたいのはどの問いも面白いということである。ここでの選択の基準は「手短に答えられそうなもの」という基準である。私の応答は→の後に書く。

2.わたしはなぜ皿洗いができないのか
→私は家事がほとんどできないが皿洗いは好きでよくやる。私が皿洗いができるのはおそらく、指で触ってキュッキュッとなったらそれで綺麗になったと思っているからであると思う。実際に綺麗になっているかは知らないがヌメヌメしていなかったら綺麗になったことにする。それができる。だから私は皿洗いができるのである。私はちゃんすさんがどういう人かは知らないが「本当に綺麗になっているのか?」と問い続けてしまうのだとしたら別に綺麗にはなっていないとどこまでも言えると思う。しかし、私はなんとなく触った感じ、指先がキュッキュッと音を鳴らすとなぜか綺麗になったと思える。それは不思議なことである。

なんか常体だと偉そうなので敬体に変えます。

8.同担拒否はプライドが高いから?
→私はあまり推しという文化に詳しくないので間違っていたら恥ずかしいのですが、なんでなんでしょうね。応答できる気がして書き始めたのですがわかりませんね。すみません。なんというか、ハイデガーの解釈に違いが生じたとしてもそれらは大抵共存していますし、それが望ましいとすら思われていると思います。その意味で言えば、多面性というのはなにか、何か気に障るものなのでしょうか。身近に「同担拒否」を表明している人がいないので難しいですね。すみません。うまく応答できませんでした。ただ、なんというか、哲学的に言うとメイヤスー的な相関主義批判の文脈と関係ある気がしました。私はちゃんすさんのnoteをこの100の問いのnoteしか読んでいないのでこのような振る舞いが嫌いでしたらすみません。

[この括弧の中は少し前に書いたこの文章へのツッコミです。ここで私が気になったのは「多面性」という表現である。普段の私、そんなものがあるかはわからないがあると考えるとすれば、普段の私であれば「多-性」とか「多体性」とか言ってそうなものだが、なんでそう言わなかったのだろうか。これが対話の、対話調の妙なのだろうか。]

10.なぜ「宇宙人はいると思うか」と聞くのか
→いい問いだと思いました。哲学者、例えばハイデガーは火星人に例えられていた記憶がありますが、それは関係あるのでしょうか。すみません。手短に応答するのは難しいですね。

[ハイデガーをよく例に出しているのは私がハイデガーが好きだからとか、よく勉強した記憶があるからとか、そういうことではなく人気そうな気がするからです。ただそれだけです。]

18.なぜ期待してしまうのか、期待するのをやめられないのか
→私はひねった見方かもしれませんが「期待」というのは理解しやすい、そして理解を共有しやすい形式なのかなと思います。また、「期待」には抽象的なものと具体的なものがあって、「期待するのをやめられないのか」という問いは「なぜ期待を具体的にするのをやめられないのか」という問いに変換することができるかもしれないと思いました。

[この応答の背景には「希望/期待」というボルノウ的な対比があります。そのうちでも「希望」は抽象的で全体的であるのに対し「期待」は具体的で部分的である、みたいな対比があった気がして書いています。その転換を「期待」の本質として考えるのがボルノウ由来なのか、私にはわかりません。読み直してみないと。ここでもハイデガーに深く影響を受けたボルノウが出てきていますがたまたまです。]

26.ヤングケアラーではない子どもはいるのか
→たしかに子どもは親をケアしなくてはならないというか、そういう境遇になってしまう構造が社会に、世間に?ある気がしますね。また、私は過去の私をケアしているし未来の私をケアしているし、どちらかと言えば未来の私のほうがケアしている気がするので永遠にヤングケアラーなのかもしれませんね。ただ、このアナロジーは危険な気がしますが。

29.共感力の高い人と低い人はなにが違うのか
→私はたぶん共感力が低い人です。なんというか、共感は気恥ずかしい感じがします。自然にできなくて困っているというか、私に限ったことを言えばそんな感じがします。自然に共感してしまう人が共感力が高いのかはよくわかりません。広い共感と深い共感という対比もあり得るかもしれませんね。

[なんというか、もっと元も子もない言い方をすれば、振る舞いの裏には何もなくただ単に振る舞いを考えるときに「共感力が高い/共感力が低い」という言説が構築されているだけなのかもしれません。「広い共感/深い共感」もまたこの構築から逃れことはできないと思います。ただ、だからと言って意味がないわけではないと思います。]

37.「わかる」と言われるのが嫌なのはなぜか
→近い感覚がある気がします。ただ、私はむしろ「わかってるよ」みたいな行動を取られるのが嫌なのだと思います。なので少し違うのでしょう。むしろ「わかる」と言われるとコミュニケーションが始まりそうで嬉しいかもしれません。コミュニケーションなしに「わかる」と暗に言われるのが嫌なこととちゃんすさんが言われているような嫌なことはどういう関係にあるのでしょう。

48.なぜ年長者を敬うのか
→もしこの問いが「私のほうが年長なんだから敬え!」みたいなことに対するカウンターだとしたら正当なカウンターだと思います。ただ、そうではなく、なんというか、ある意味戦略的なことで「敬う」のだとしたら、そういうどうでもいい年の差みたいなものを使うことで学ぶ側のポジションに自然に入れるみたいな、そういうメリットがある気がします。どうでもいいからこそそういうメリットが自然にスッと手に入れられる気がします。

50. テストが終わってから間違いに気づいたり、家を出てから忘れ物に気づいたりするのはなぜか
→なんというか、「テストが終わる」とか「家が出る」とか、そういうことはある意味で区切りであると言えると思います。人生の選択というふうに抽象化してもそうだと思います。私たちはいつも過去の過ちに頭を抱えていて、それが強調されるのだと思います。区切りによって。

58.なんで嘘だとわかっていても物語に感動するのか
→なんというか、私は物語で感動するとき、どうにも整理できなかった事柄がその物語と似ていることに気がついている気がします。そして、私はおそらくその物語に登場する人たちに「こういうふうに振る舞うんですよ。」みたいに教えられている気がします。その場合、その「嘘」は整っていて私は整っていない。それがなんだか心地よいのかもしれません。自分を単純化しなくてもいいというか、そういう気持ちの良さがある気がします。あと、これは言いたいだけなのですが私が好きなOZROZAURUSというラッパーの『Hey Girl』という曲の中に「嘘言ってても真実ならいい」という歌詞があって、それがここに関係する気がします。

62.どこまでが自分の言葉なのか
→どこまでも他人の言葉だと思います。組み合わせが多くなっていって、どんどん複雑になっていって、そうするとなんだか自分の言葉っぽくなるだけだと思います。

64.ケアって人間にしかできないの?
→ケアに「する」と「される」があるとすれば、そのように仮定すれば「される」のは人間にしかできない気がします。

68.正解のない問題ってあるの?
→ないと思います。問題は正解とセットでしか理解できないと思うので。

82.レタスは皿か
→皿は基本的には食べられないので皿ではないと思います。

答えられなかったり、答えが長くなりすぎると思ったり、即答してしまったり、そういうものは省いた。面白い問いを考えられる人は素晴らしい。私もそういう人になりたいのだがいかんせんあんまりみんな興味がなさそうな話しかしていない。というか、私は同じ問題を言い換えているだけである気がする。その点ちゃんすさんはすごい。

[私も100個の問いを考えました。「私が考えたい100個の問い」というタイトルで投稿しています。興味のある方はぜひ。
「私が考えたい100個の問い」
https://note.com/0010312310/n/n4b73c014d91d?sub_rt=share_pw&d=s6ccGzR4i6k

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?