ツギハギ!

ツギハギ。みんなでつぎはごう。ツギハギをしよう。

方法を軽く述べる。「軽く」というのは変わる可能性があるからである。まず、いまから段落に記号を振りつつ文章を書く。一段落を単位として「文」と呼ぼう。だからいまから記号を振りつつ「文」を書き連ねていくわけである。ただ、一つだけ工夫をしよう。それは番号を振るのではなくアルファベットを振るという工夫である。この工夫をする理由はアルファベットのほうが数字よりも順序性が薄いからである。言い換えれば、アルファベットのほうがAの次にBという制約性が薄いからである。もちろん、ないというわけでないわけではないが。事実、「Aの次にB」は常識的な制約性として、順序性として想定されているから説明が成り立っているわけである。ただ、これによってより、「文」同士を引き離すことができる。ツギハギがそれであるためにはある程度「引き離す」ことが必要なのである。

さて、テーマは特に決めずにやっていこうと思う。が、一応Twitter(現X)を周回して面白そうなテーマを見つけてこよう。さて、ちゃんと帰って来れるかな。ちなみに別にテーマに沿わないことを延々と書き続けてもいい。一応言っておくが。私はわかっていると思うが。

さて、早々に見つかりました。テーマは「具体例」にしましょう。では、スタート。


A 人類学が最近流行っている気がする。なぜなのだろうか。私はその理由の一つに「具体例」がエキゾチックだからという理由があるように思う。少なくとも「説得」の一つの方法として「主張したいこと/主張したいことと反すること」という対比を作り、そのそれぞれを「主張したいことの「具体例」/主張したいことと反することの「具体例」」というふうに次元を変えて、そこで論じたことを元の対比すなわち「主張したいこと/主張したいことと反すること」に重ね合わせるというものがある。人類学が(少し露悪的に言えば)ウケているのはこの「次元を変える」がエキゾチックに行われているからではないだろうか。この「エキゾチック」というのは言うなれば、「私とは確実に違うが現実に存在している」ということであると考えられる。人類学が提示する「具体例」は遠すぎるがゆえに逆に私たちの処理能力が働いて「現実に存在している」という感じが強くなるのではないだろうか。それがおそらく最近人類学がウケている理由、少なくともその一つにはあるのではないかと思われるのである。

B 代用不可能なものをそれとして扱うことはできるのだろうか。もう少しちゃんと言うとすれば、代用不可能なものを私たちはそれとして扱うことはできるのだろうか。例えば、私は最近お金がないので「本を買う」を「ブクログ(本に関係するアプリ)に「読みたい本」を登録する」ことで代用している。もちろん、「本を買う」ほうがいいのだろうけれど「読みたい本」に「登録」すれば、本棚みたいなところに一応並ぶから「本を買う」ことの一部は達成されている。し、やはりすべての行為は衝動的な側面もある(もしかしたらそれがないとそもそも「行為」とは名指せない可能性もある。ここでは深く考えないが。)のでその次元まで行けば、もはや「本を買う」と「を「ブクログ(本に関係するアプリ)に「読みたい本」を登録する」ことは同じことである。衝動を満たすという面においてはどちらも大いに用いることができるのである。

C 計算的理性(道具的理性だったかもしれない。ハーバーマスかな?確認するのは面倒くさい。)は批判されてきた。らしい。が、その批判をちゃんと知らないので「目的」とか「使用」とか、そういう概念が出てくるとすぐに「それはダメなんじゃない」みたいな私が現れる。よく知らないのに外野からうだうだ言う暇があったら勉強しろよ、と思うのだが、それもまた私のなかでのことである。

D 志賀直哉のなんとも言えないリアリズム。私は正直あまり小説を読まないのでちゃんとはわからないのだが、志賀直哉を読むと大抵「リアリズム」ということが気になってくる。このことについてはいくつか文章を書いたがたいして身になっていない。ような気もする。

E 私は踊ってきた。結構な年数。だから踊りを教えたり見たり考えたりするとき、私のなかの語彙は活発に活動している気がする。私は喉を鳴らしてきた。まるで法螺貝のように。だから虫の声を聞いたりサイレンを聞いたりするとき、私のなかの語彙は活発に活動している気がする。こういうふうなことはとても重要なことである。説教ではなく享楽(主義)のために。

F ある系列がそれであるためにはそのある系列をそれとするための系列が必要になる。その形態はいくつかあると思うが、ラカン(もしくはフロイト)は「意識/無意識」のそれぞれに同じような連鎖があるとしたし……この議論はうまくいっていないが、言いたいことはなんとなくわかる。少なくとも私は。

G 呼応の楽しさ。コールアンドレスポンスの楽しさ。その単純さ(これは批判ではない。いまのところは。これは別にいつか批判するということではない。)、それに目を向けていなかった。私は。いや、単純さには目を向けていたかもしれないが、その楽しさに目を向けていなかったのだ。

H じっくり耐える。ピースに萎えることなく。ほどなくしたら木の根は開く。反復を見つけると私たちは嬉しい。なんでか知らないけれど嬉しい。らしい。

I 感情を+-で考える。ただ、その両端を何にするかは難しい。私の場合は「賦活」やら「享楽」やら、そういうことがプラスに来そうである。

J お茶を飲む。お茶がずんずん進んでいく。私の喉を、体を、人の私を。少し湿る。濡れる。私の内部は。やけに乾燥している肌の上、すらりすらりと落ちていく、あの風呂の水と少し違って。

K 私は結構即断している。こいつは好き、こいつは嫌い、と。しかし、それを隠してもいる。その人に、そして私に。そのことがストレスになるのはあらかじめ存在する道徳法則が思い出されるとき、いや、私が私を苛むとき、私はそれに耐えかねてそこに「道徳法則」なるものを見出すのである。

L どんなことにもミニマムな、それ自体としての享楽が、きっといくつか待っている。メシアみたいに。そんなふうに、私は思って生きている。これは願いで、そして祈りで、今日もそうとしか考えない。怖くてまるで考えられない。無力だと言われてもそれはそうだ。ただ、仕方ないのだ。

M 醜きこと、私はそれほど知りません。いや、何も思いつきません。醜いとされていること、それならいくつか知ってます。学校で社会で勉強しました。しかしもう一つ、私は勉強しました。やたらに「勉強しました」と言うことが良いことばかりではないことを。

P なぜか気が合う人がいる。いや、長く付き合った人をそう言っているだけ。なのかもしれない。

Q 考えることに遠慮している。そんな私が居る。いや、もしかするとこれも、そういう私が居ることにすることでもっと考えられるという幅を残しているに過ぎないのかもしれない。「それはそうだね。」と大してクリティカルじゃなさそうだ。なんでだろう。

R 目が悪いと少しだけ、質感がわからないのさ、悲しいね。ぬいぐるみを触ってみないとさ、困ったことだねまったくね。

S サンタさんに頼んだ。「サンタさんの正体を教えてほしい。」と。そのときからわたくしは、恋愛と言われることの少なくとも、一部を喪失したままだ。

T これは○○を使えばよくわかります。例えば、一つ前のものは『ラカンと哲学者たち』を読めば少し意味がわかると思います。少しはね。ただ、「よくわかる」なら私にも教えてほしい。○○。

U 夜風を浴びる。浴びるほど、風はたくさん吹いているのだろうか。強い風はわかるけれど、たくさんの風ってなんだろう。それともなんだ君ははて、一つ一つの風をはて、知っているとでも言いたいのかい?音楽者が音を聞き分けられるかのように。

V 座って書く文章と寝転んで書く文章は何か違うのだろうか。違うとして、それは体勢に由来すると、どうして言えるのだろうか。ただ、私はあると思いますよ。違い。というか、あると思いたいんですよ。だって無意味っぽいじゃないですか。

W 私見ましたあの人が、星座を作っているところ。

X 「麦藁蜻蛉が来た。蜻蛉はカンカンに照りつけられた苔も何も着いていない飛石へとまった。そして少時するとその暑さの中に満足らしく羽根を下げた。」(『志賀直哉随筆集』16頁)私はやたらとこの文が好きだ。他にも「少時すると虻は飛込んだ時とは反対にやや不器用な身振りで芯から脱け出すと、直ぐ次の花に──そして更に次の花に身を逆さにして入り、一ト通り蜜を吸うと、何の未練もなく、何所かへ飛んで行ってしまった。虻にとっては朝顔だけで、私という人間は全く眼中になかったわけである。そういう虻に対し、私は何か親近を覚え、愉しい気分になった。」(『志賀直哉随筆集』61頁)がやたらと好きだ。

Y 身近な人の死、永遠に会うことはない、もうその人に。けれどもけれど、私たちはいつもいつも喪っている。私たちを。私たち自身ではなく私たちを。気がついていないだけで。

Z 「一度あったことは忘れないものさ。思い出せないだけで。」この台詞、銭婆の台詞、色々なところに繋がるけれど、そのどれも断ち切って、これとして受容する。


さて、一応Zまで行った。ここからAAとしてもいいし、どれか付け加えたいものに付け加えてもいい。ZAみたいに。また、それぞれの関係を考えてみてもいいし、それぞれのあいだに立ってみてもいい。なんでもいいが、今日はとりあえずこれで終わりにしようと思う。同居人がそろそろ眠りそうなので。

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