哲学してて、いいことあった?

哲学してて、いいことあった?
と、たまに聞かれる。
誰に聞かれるかと言えば、私と私の周りの人と宇宙とに、である。
それぞれに対して答えは異なる。

私にはこう答える。
「なぜそんなことを問うのだ。」と。
私の周りの人にはこう答える。
「そもそも哲学はするものではなくあるものである。」と。
宇宙にはこう答える。
「それが私の輝きだからである。」と。

どれも間違っていない。
けれど、私以外の人に通じるようにしようとすれば、やはり二つ目の答えが最ももっともらしいと思う。
私は別に「哲学をしよう」と思ってそうしているわけではなく、自分の癖が哲学と相性が良かっただけなのである。
たまに「どうやったら哲学に出会える人生を送れるのかしら。」と言われることがあるのだが、別に私は哲学に出会うために生きているわけではなく、「よく生きる」ことをするために私には「考える」が不可欠で、そのことの一つの型としての「哲学」と相性が良かったからそれをしているだけで、別に「出会う」ということにおいてはすべて同じ通り、たまたまなのである。
少し前「哲学を流行らせたい」と私は言ったけれど、「哲学をしよう」とは言わなかった。

参照 「哲学を流行らせたい」
https://note.com/0010312310/n/n16b116905878

それは「哲学をする」ということはどうしても哲学的に生きざるを得ない人間がすることであって、そのような人間でない人間が関わるとどこか頭でっかちになってしまうような学問が哲学なのである。
もちろん私も頭でっかちになることがあって、人に何かを言える立場ではないのだが、「哲学をする」ということと「哲学者である」ということの違いに目を向けられないような勧め方をするのはとてもひどいことのように思われるのである。

本題に戻る。
「哲学をする」ことが「いいこと」であるというのはその「哲学をする」人が元々「哲学をする」ことを不可欠だと考えている必要がある。もちろん、もともと哲学を知っているわけではなくて、哲学の方が後からきているのであるが、一度哲学に入り込むと、その歴史の広大さと深さに、私がそれに包まれているような気持ちを起こすものである。
私は哲学に包まれている。
私は哲学的に生きるしか在り方がないのである。

私が哲学を真剣に始めるきっかけになったのは木田元さんの『反哲学入門』であるが、そこにこのようなことが書いてあったような気がする。

哲学を勧めるというのは麻薬を勧める行為に等しい。

私はこれを読んで、なんとなく理解したので覚えているのだが、やはり哲学は毒である。
人生を生きるために哲学は必要ないのである。
だから「人生を生きる」ことが「人生を生きる」ことの目標であるものに対して「哲学」など勧めることはできない。
それは麻薬を必要としない人にそれを勧めることに等しいからである。

だから私は「哲学」がどうしても必要な人と必要かもしれないと考えている人に対してしか「哲学」について語らない。
最近はめっきり哲学者の言葉や知を文章に参照することが少なくなったが、それは哲学が私の中で変容しているからである。
その変容とは、一言で言えば、彼らの考えることと私の考えることは似ているが違うということを強く認識した、ということである。
彼らを参照する時、私はかなり理論武装的な、文章武装的な、そんなつもりはなかったのだが、そんなことを自分の文章に見出すようになってきた。
だから何度も、書いたものを消し、それをどのように考え直すか、ということを考える日々が続いている。
別に私は哲学から離れたわけではなく、哲学者から離れたわけでもなく、哲学を使って文章を書くことから離れたのである。
もしかすると、私の哲学への言及が好みの人もあったかもしれないが、きっとそれらはどこかで繋がっている。
私は暗喩が好きなのである。
そして、私はいつか、自分の語る言葉がすべて暗喩であると受け取られることを夢見ている。
そんな日が来たとすれば、

哲学してて、いいことあった?

と聞かれた時に、

なにもなかったよ。

と言ってもいいような気がするのだ。

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