シンプルな生き方

私の癖というか、習慣というか、そういうもの、その中でも一つについて書いてみましょう。思いついて書き出しただけなので、というか、次の塊を見つけただけなので、なんにも見つけてないかもしれません。
私が発見したのは、以下のようなことです。

誰かが「愚者でも自らの家の中では賢者よりもよく生活できる」というようなことを言っていたが、その家の中で踊るとしたら踊り子の方が豊かである。

私が発見したのはこれだけです。
それも、考え事が終わって私がいつもするような、踊りながら家の廊下を移動することに意味を見つけようとしたからそれを見つけただけで、半分くらいは言い訳だと言えます。
しかしながら、私はこれを単純な評価を信じるべきであるという話だと信じます。
つまり、「踊る」ということにおいて、賢者であることは絶対的であり、「知る」ということにおいて、賢者は相対的、局所的な場面においては相対的なのです。
私は以前、「美しい文章が書きたいという願いを堕落させるな」というようなことを書きました。
それはこのようなことです。

昔、私は「美しい文章が書きたい」と思っていました。
そのために私は、美しい語彙を学び、美しい構成を学びました。
しかし、それは「美しい語彙を用いた文章を書く」ということや「美しい構成を持つ文章を書く」ということに向けられた努力なのであり、「美しい文章を書く」ということには全く寄与していないような気がしたのです。
このことから、私は「美しい文章を書く」という願いを「美しい語彙を用いた文章を書く」や「美しい構成を持つ文章を書く」ということに堕落させることが逆に遠回りだと考えたのです。

もちろん、この昔の私の甘さは、「じゃあ、どうやって努力すんだ?」ということに答えがなかったということでしょう。
今の私は答えがあります。とは言えません。ありません。
しかし、「準備」と「努力」は異なることを知ったということはあるかもしれません。
というのも、「美しい文章を書く」という到達点ではなく、度々訪れる試練、そして僥倖、それを受容するためには「努力」ではなく「準備」が必要だということがわかってきたのです。
「努力」は目的を設定しますが、「準備」は待つことを目的とします。「準備」は何を待つのかと言えば、願いが叶いそうな時を待つのです。
こう考えると、昔の私から今の私への変化を決定づけるのは、「美しい文章を書く」ということを目的としてではなく、「書く」ということに偶然訪れる僥倖として捉えることによって、「書く」ということを鍛える思考へと転換したということでしょう。
私は別にこれを進化や成長として捉えませんが、「よりよく生きる」ということがやり易くなったとは感じています。

初めに戻りましょう。

ここで言いたいのは、シンプルな審級を自ら設定できるようになろうということです。
そしてそれは目的ではなく、僥倖により良い態度を取れるような態度を育てるということが目的なのです。

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