0時すぎに散歩から帰る

 ちょうど0時だ。

 ぼやー、っと、まるで錯綜体のように存在するそれの、輝きやら豊穣やら、そういうものを書こう。

 私が考えていたのは独我論と利己主義を「言う」ことである。そしてとりあえず、私は他人が私に「あなたは利己主義者だ」と言う場合のことを考えていた。
 ただ、それはつまらなかった。というか、そんなことを考えていたわけではない。いま、考えていたことにした、だけである。

 では、私は何を考えていたのだろうか。それはよくわからない。よくわからないからこそ錯綜体なのである。ちなみにこの「錯綜体」というのはヴァレリーとアガンベンに由来する用語、私の用語なのだが、よくわかっていない。これもまた、よくわからない。ただ、そこから、いや、それから?、とにかく錯綜体からは輝きやら豊穣やら、そういうものが引き出せるのである。

 さて、独我論はそもそも議論不可能だが、利己主義はそんなことはない。最も極限的な「私」を想定するとしても、利己主義は議論可能である。独我論と利己主義、と言うときの「と」にはこの「議論可能か否か」という問題が存在している。

 問題の存在論。私はこういう分野?のようなものを思いつくことがよくある。のだが、ドゥルーズが役に立ちそうだ、ということくらいしかわからない。いや、なんというか、ドゥルーズしかそういう議論をしていないわけではなくて、私がそれしか知らないだけである。
 問題が存在する、というのは結構特殊なことであると思う。なぜなら、問題は存在していないからである。これではまるで論証になっていないのだが、私の実感はいつもこれを言わせる。
 だから私は、だから?かな、よくわからないが、私は問題を作られたものであると思っている。これはある人が故意に作ったということではない。もちろんそういう場合もある。なんというか、私は問題を感じている人や提起している人がむやみやたらだと言いたいわけではない。しかし、そのようなことがまったくないと思うのはあまりにも、あまりにも素朴すぎるというか、別にそれで全然いいのだが、なんとなくおかしいなあ、と思うのである。

 さて、家に帰ってきた。私は散歩に行っていたのである。最近、散歩が目的的なものになってしまって、いや、そのように思うようになってしまって、なんとなく嫌だ。これも、いや、これはおそらく論文を執筆するという、そういう職務が私にある、いや、あると思っているからそうなっている。ことにしよう。

 なんだろう。不思議なことはたくさんあるが、それはただの謎であり問題ではない。問題というのは不思議なものだ。

 よくわからないことは、明日になればよくわかるようになるわけではない。明日の朝、今日よくわからなかったことはまあまあわかることになる。なぜか知らないがそうなっている。そうなっていることにしている。
 独我論は「ことにしている」を暴く。独我論という錯綜体はそれにしかできない仕方で輝く。豊穣に輝く。

 昨日、私は見た。美しい、そして蠱惑的な、声を。見たのだ。それを。私はそれを追いかける。追いかけてしまったことを追いかけたと言えること。それが人生における幸せの条件である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?